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第70話 騎士になった理由

 私の夢へ入る直前、森が揺れた。


 黒い花弁の道が裂け、別の記憶が割り込んできた。


 ノア様の記憶だった。


 さっきの訓練場ではない。

 もっと古い。

 雨の降る王都の裏門。


 少年のノア様が、泥だらけの靴で立っている。手には折れた木剣。目の前には、若いアシュレイ王子がいた。


 まだ眠りの呪いが公になっていない頃。

 王子の顔には疲れがあり、それでも少年ノアに手を差し出している。


「立てるか」


 王子が言う。


 少年ノアは唇を噛んだ。


「騎士候補から落とされました。家の名も、剣も、役に立たないと」


「そうか」


「笑わないんですか」


「私もよく、役に立たない王子だと言われる」


 少年ノアが驚いて顔を上げる。


 王子は少しだけ笑った。


「だから、役に立たないと言われた者同士、立つ練習をしよう」


 雨の中で、王子は泥だらけの少年に手を伸ばした。


 ノア様が息をのむ。


 今の彼は、その記憶を忘れていたわけではない。けれど大切にしまいすぎて、忠誠の形を固める芯にしていたのだろう。


「私は、陛下に拾われた」


 ノア様が呟く。


「だから、陛下を守ることだけが私の価値だと思っていた」


 記憶の中の少年ノアは、王子の手を取る。


 その瞬間、黒い花弁が少年の手首に巻きついた。


 守られた記憶が、縛る記憶へ変わる。


 アシュレイ陛下が顔を歪めた。


「ノア」


「大丈夫です」


 ノア様は記憶の中へ歩いた。


 少年の自分と王子の間に立つ。


「守られたから守る。それは間違いではない」


 黒い花弁が揺れる。


「だが、守る相手を檻に入れることは違う。私は陛下を生かすために騎士になったのであって、陛下を孤独にするためではない」


 少年ノアが今のノア様を見る。


「じゃあ、騎士って何」


 今のノア様は、少し困ったように笑った。


「まだ練習中だ」


 雨が止んだ。


 記憶の中のアシュレイ王子が、今の陛下を見る。


 同じ目。

 眠ることを許されなかった目。


 陛下は静かに言った。


「私は君を拾ったのではない。あの日、私も君に助けられた」


 ノア様が振り返る。


「陛下」


「一人ではないと思えた」


 その言葉に、ノア様の顔が崩れかけた。


 でも彼は騎士だから、泣く代わりに深く頭を下げた。


「では、今後も迷い、止め、必要なら叱ります」


「頼む」


 黒い花弁がほどける。


 騎士になった理由は、命令に従うためだけではなかった。

 孤独な王子の隣に、もう一人立つためだった。


 森はその記憶を奪わなかった。


 ただ、固まりすぎた忠誠を少し柔らかくした。


 記憶が消えると、黒い花弁の道はまた私の前へ戻った。


 母の部屋。


 壊れた婚約花。


 今度こそ、私の番だ。


 アシュレイ陛下が隣に立つ。

 ノア様も一歩後ろにいる。

 リディア様、イオ、カッサ、トマ。


 一人ではない。


 私は夢の部屋へ足を踏み入れた。


 母は、昔と同じ声で言った。


「ミラ。壊れた花を、怖がらないで」


 その声を聞いた瞬間、私は自分がまだ泣けることを思い出した。


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