第7話 花を踏まない令嬢
セレスティア・ヴァーン様が部屋に入ると、空気が一段冷えた。
それは彼女が冷たい人だから、というだけではない。
王宮の人々が、彼女の背後にあるヴァーン公爵家を見ているからだ。
王妃候補筆頭。
貴族院の華。
王に最もふさわしい花。
そんな噂を背負う人が、花冠院の下級修復師を見に来た。
王宮中が聞き耳を立てないわけがない。
「人払いを」
アシュレイ陛下が言うと、ノア様が廊下の侍女と騎士を下げた。
扉が閉まる。
セレスティア様は陛下へ優雅に礼をした。
「突然の訪問をお許しくださいませ」
「許可していない」
「では不法侵入ですわね。後ほど正式に叱責を」
涼しい顔で言う。
陛下はため息をついた。
「用件は」
「もちろん、新しい仮婚約者様へのご挨拶です」
セレスティア様は私へ向き直った。
近くで見ると、彼女は噂より若く見えた。
美しいけれど、作り物の花のように隙がない。微笑みも角度まで決まっている。
「ミラ・リース様」
「様は不要です」
「それを決めるのはあなたではありませんわ」
侍女長と同じことを言われた。
「あなたは陛下の仮婚約者です。仮であっても、王宮は仮の扱いをしません。笑う者、試す者、利用する者、壊そうとする者。全部来ます」
言葉は冷たい。
けれど、内容は警告だった。
「なぜ教えてくださるのですか」
「あなたがあまりにも、踏まれやすそうだから」
セレスティア様は部屋の花瓶へ視線を向けた。
淡い紫の保留花。
「保留の花。侍女長らしい選び方ですわね」
「意味をご存じなのですか」
「王宮で花の意味を知らずに生きるのは、剣を知らずに戦場へ出るようなものです」
彼女は花瓶へ近づいた。
しかし触れない。
「保留は、まだ決められていないという意味ではありません。決める権利を相手に預けない、という意味もあります」
私は少し驚いた。
侍女長がこの花を選んだ理由が、今初めて分かった気がした。
セレスティア様は私を見た。
「あなたが自分をただの駒だと思うなら、明日には本当に駒になりますわ」
「私は駒ではありません」
「なら、何ですの」
答えに詰まった。
下級修復師。
仮婚約者。
王の秘密を読んだ危険人物。
十五番の花冠を見捨てられなかった人間。
どれも正しい。
でも、どれか一つでは足りない。
「修復師です」
結局、そう答えた。
セレスティア様は、少しだけ目を細めた。
「では、修復師として忠告します。王宮で最も壊れやすい花冠は、王冠ではありません」
「何ですか」
「人の評判です」
彼女は胸元の咲かない蕾へ指を触れた。
「花は一度踏まれたら、踏んだ人間の靴跡より、踏まれた形の方が長く残ります」
その声に、ほんの少しだけ別の色が混じった。
痛み。
あるいは諦め。
私は思わず蕾を見た。
咲いていない。
枯れてもいない。
固く閉じている。
見すぎてはいけない。
侍女長に言われたばかりだ。
私は視線を戻した。
セレスティア様は、私が何かに気づいたことに気づいたようだった。
けれど何も言わなかった。
「十五番の婚約花冠」
陛下が静かに言う。
セレスティア様の肩が、わずかに強張った。
「エミリア・ヴァーンの件を知っているか」
「分家の娘が不誠実で破談になったと聞いております」
「花冠は恐怖で枯れていた」
沈黙。
セレスティア様は私を見た。
「あなたが読んだの」
「はい」
「余計なことを」
その言葉は、私を責めるというより、自分の痛みを隠すための棘に聞こえた。
「なぜ余計なのですか」
「王宮では、本当のことを言えば人が救われるとは限らないからです」
セレスティア様は陛下へ向き直った。
「陛下。十五番を再調査なさるなら、ヴァーン本家は黙っておりません。父は必ず、この仮婚約と結びつけます」
「分かっている」
「分かっていて進めるのですか」
「進める」
陛下の声は揺れなかった。
セレスティア様は、ほんの一瞬だけ笑みを消した。
「あなたは昔から、眠らないくせに夢のようなことをなさいますわね」
眠らない。
その言葉に、陛下の目が少しだけ冷える。
セレスティア様はすぐに礼をした。
「失礼しました」
「いや」
短いやり取り。
けれど二人の間には、私の知らない年月があった。
セレスティア様は帰り際、私の横で足を止めた。
「ミラ様」
「はい」
「あなたは花を読みすぎる。読んだものを全部救えると思わないことです」
「思っていません」
「ならよろしいですわ」
彼女は扉へ向かう。
その足元に、保留花の小さな花びらが一枚落ちていた。
セレスティア様は、やはりそれを踏まないように歩幅を変えた。
扉が閉まったあと、私は思わず言った。
「悪い方ではないですね」
ノア様が咳き込んだ。
陛下は少しだけ眉を上げた。
「今の会話でそう判断するのか」
「花を踏みませんでした」
「君の判断基準は独特だ」
「でも、花冠院より信じられます」
陛下は黙った。
やがて、静かに言った。
「セレスティアは、ヴァーン家の花冠に閉じ込められている」
「助けたいのですか」
「助けたいと思うほど、私は彼女を知らない。ただ、彼女もまた、利用される側だとは思っている」
その言葉を聞いて、私は少しだけ安心した。
陛下は誰かを簡単に悪役にはしない。
自分が悪役の噂を被ってきた人だからかもしれない。
その日の夕刻、エミリア・ヴァーンが王宮へ到着した。
十五番の持ち主。
恐怖で折れた花冠の誓約者。
彼女は小応接室に入るなり、私の顔を見る前に、花冠の箱を見て泣き出した。
「それを、焼かないでください」
その一言で、十五番の花冠がはっきり震えた。




