第6話 王宮に咲いた噂
翌朝、王宮の告示板に一枚の文書が貼られた。
王印つき。
宰相府の署名つき。
花冠院、貴族院、騎士団、神殿へ同時通達。
内容は短い。
第三修復室所属、下級修復師ミラ・リースを、国王アシュレイ・リュミエールの仮婚約者として王宮東翼へ迎える。
戴冠十周年儀式に関わる王家花冠修復の補佐を命じる。
短い文書は、短いぶんだけ破壊力があった。
花冠院の廊下は、朝から蜂の巣をつついたようになった。
「下級修復師が?」
「リース家って、あの没落寸前の?」
「王家花冠修復の補佐? ありえない」
「補佐って名目でしょ。寵愛では?」
「陛下が? まさか」
聞こえないふりをして歩く練習は、第三修復室で嫌というほどしてきた。
けれど今日の視線は、壊れた花冠より痛かった。
なぜなら私は、彼らの疑いが完全に間違っているとは言えないからだ。
寵愛ではない。
恋でもない。
けれど、表向きは婚約だ。
王の秘密を隠すための、政治的な花冠。
私自身が、偽装の一部になっている。
「歩幅が乱れている」
隣を歩くノア様が言った。
「見られすぎると歩幅も乱れます」
「仮婚約者は視線に慣れる必要がある」
「昨日まで花の墓場にいました」
「今日から墓場より危険な場所にいる」
「励ましが下手ですね」
「励ましていない」
もう少し別の返しが欲しい。
私に与えられた部屋は、王宮東翼の端にあった。
端とはいえ、第三修復室の三倍は広い。窓には薄絹の幕、壁には花蔓の意匠、机には新品の筆記具。
何より、花瓶があった。
まだ誰の誓約にも結ばれていない、淡い紫の花。
「空の花瓶は不吉とされる」
ノア様が説明した。
「この花は?」
「仮婚約者の部屋に置くため、侍女長が選んだ。意味は、保留」
「保留」
「君に合っている」
失礼なのか的確なのか分からない。
荷物は少なかった。
第三修復室から持ってきた修復道具、記録帳、着替え二組、母の古い針箱。
それだけを棚に置くと、この部屋は私のものというより、私が間違って迷い込んだ箱のように見えた。
昼前、侍女長が来た。
エルナ・グレイス。
年齢は五十前後。背筋がまっすぐで、王宮の廊下より隙がない。
「ミラ様」
様、と呼ばれて背中がむずむずした。
「様は不要です」
「必要です。あなたが必要と思うかではなく、周囲にそう扱わせるためです」
侍女長は私を椅子に座らせ、髪をほどいた。
「仮婚約者として最低限覚えることがあります。まず、廊下で謝りすぎないこと」
「謝りすぎていますか」
「今も謝る顔をしました」
鏡の中の私は、たしかに困った顔をしていた。
「次に、花を見すぎないこと」
「それは難しいです」
「でしょうね。ですが貴族は、見られた花を見られた本心と解釈します」
侍女長は櫛を動かしながら言った。
「あなたは修復師です。花を見てしまう。それを隠しすぎれば不自然。ならば見てもよい花と、見てはいけない花を覚えなさい」
思ったより実用的な授業だった。
午後、花冠院から正式な抗議文が届いた。
下級修復師を王家花冠修復に関わらせることは院規違反。
修復師資格の等級を無視する暴挙。
花冠院長オルド・マグラスの承認なき人事は無効。
貴族院からも文書が届いた。
王の婚約は王国政治に関わるため、貴族院の承認が必要。
リース家の家格は不十分。
仮婚約であっても、王家の品位を損なう。
私は書類の山を前に、思わず言った。
「私、ずいぶん嫌われていますね」
アシュレイ陛下は執務机の向こうで署名をしながら答えた。
「君個人ではない。君を通して私に怒っている」
「少し慰められました」
「それはよかった」
全然よくなさそうな顔で言われた。
陛下は抗議文に目を通し、何通かを横へ分けた。
「花冠院長は今夜来る」
「怒りに?」
「表向きは説明を求めに」
「同じでは」
「王宮では違うことになっている」
私は十五番の箱を机に置いた。
「エミリア様への聞き取りは?」
「明日、王宮へ呼ぶ。表向きは仮婚約者の花冠選定に関する参考人だ」
「また表向き」
「表向きのない王宮は、花瓶のない花冠院より不自然だ」
陛下の言い方は淡々としていた。
けれど、目の下の影は濃い。
昨夜から眠っていない。
その前からも眠っていない。
私はつい、机の端に置かれた冷めた茶を見た。
「お茶を替えましょうか」
「侍女がする」
「今はいません」
「君は仮婚約者だ」
「修復師でもあります。冷めたものは、状態が悪い」
陛下は一瞬だけ黙った。
「茶を花冠と同じに扱うな」
「すみません」
「だが、替えてくれ」
私は茶器を持ち上げた。
その時、部屋の外でざわめきが起きた。
ノア様が扉を開ける。
廊下に立っていたのは、銀髪の女性だった。
淡い青のドレス。
真珠の髪飾り。
完璧な姿勢。
彼女の胸元には、咲いていない小さな蕾の飾りがあった。
「セレスティア・ヴァーン様」
ノア様の声が硬くなる。
ヴァーン公爵令嬢。
王の元王妃候補。
そして十五番の持ち主エミリアの本家筋にあたる人。
セレスティア様は、私を上から下まで眺めた。
「あなたが陛下の新しい花ですの」
冷たい声だった。
けれど彼女は、廊下に落ちていた紫の花びらを踏まないよう、ほんの少しだけ歩幅を変えた。
私はそれを見逃さなかった。
この人は、花を踏まない。
その一点だけで、王宮の噂より少しだけ信じられる気がした。




