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第5話 仮婚約の条件

 花冠院の封鎖は、夜明け前に完了した。


 白い回廊の出入り口には王宮騎士が立ち、上級修復師も下級修復師も、許可なく外へ出られない。

 処分待ちの花冠はすべて封印箱へ移され、第三修復室にも見張りが置かれた。


 私の保留箱だけは、王の寝室だった書庫に運ばれた。


 十五番の婚約花冠は、今も小さく震えている。

 その震えは、戴冠花冠の黒い鱗が増えるたびに強くなった。


「共鳴している」


 リディア様は、十五番を見てそう言った。


 彼女は夜明けになってから陛下の書庫へ呼ばれた。上級修復師として、そして私がまだかろうじて信頼できる相手として。


「婚約花冠と戴冠花冠が?」


「花の種類は違う。でも、偽られた誓約という点では同じかもしれない」


 リディア様は言葉を選んでいた。

 花冠院の内部不正を疑う言葉は、壁にも聞かせたくないのだろう。


 アシュレイ陛下は机の向こうで黙っていた。

 昨夜から一睡もしていないはずなのに、姿勢は崩れていない。

 そのことが、かえって痛々しかった。


 ノア様が報告書を読み上げる。


「封印花廊の点検に参加した上級修復師七名のうち、三名が昏睡。命に別状はありませんが、目覚めた一名は自分の弟の名を忘れています」


 室内の空気が重くなる。


 弟の名。

 誰かにとっては小さな情報に見えるかもしれない。

 でも、家族の名を失うことは、自分の一部を失うことだ。


 陛下の指先が机の縁を押さえた。


「私が眠ったわけではない」


「はい」


「それでも奪われた」


「戴冠花冠の異常が、呪いを外へ漏らしている可能性があります」


 リディア様の声が震えていた。


 陛下は目を閉じた。

 眠るためではない。感情を押し殺すために。


 私は十五番の花冠へ視線を落とした。


「陛下」


「何だ」


「十五番の持ち主に会わせてください」


 ノア様が眉をひそめる。


「今は王家の呪いが優先だ」


「同じ根かもしれません」


「根拠は」


「花が怯えています。自分の事件だけでなく、もっと大きな嘘に触れて」


 ノア様は納得していない顔だった。

 けれど陛下は、私の言葉を切り捨てなかった。


「十五番の持ち主はエミリア・ヴァーン。ヴァーン公爵家の分家の娘だ」


 リディア様が小さく息を呑む。


「ヴァーン家」


「何か?」


「貴族院の中心です。今、王家の婚姻にも強く関わろうとしている家です」


 ノア様が続けた。


「セレスティア・ヴァーン。公爵令嬢で、陛下の王妃候補筆頭だった女性です」


 王妃候補。


 私は陛下を見た。


 陛下は表情を変えなかった。


「候補だっただけだ。誓約は結んでいない」


「なぜですか」


 聞いてから、踏み込みすぎたと思った。


 でも陛下は答えた。


「私が眠れないからだ」


 それだけで十分だった。


 王妃とは、王の眠りのそばにいる人だ。

 王が眠るたび誰かの記憶を奪うなら、王妃は最も危険な場所に置かれる。


 陛下は、誰もそこに置かなかった。


 リディア様は十五番の記録札を見つめている。


「ヴァーン分家の婚約破棄が、花冠院で処分承認済みになっている。しかも不誠実扱い。公爵家に都合が良すぎます」


 陛下は短く命じた。


「再調査する」


 ノア様が頷く。


「ただし、問題があります」


「言え」


「ミラ・リースをどう扱うかです。彼女は昨夜、王家の戴冠花冠に触れ、陛下の秘密を知りました。花冠院へ戻せば消される可能性があります。近衛で保護すれば、理由を問われます」


 室内が静かになった。


 リディア様が私を見る。

 ノア様も見る。

 陛下だけが、十五番の花冠を見ていた。


「陛下」


 嫌な予感がした。


 とても嫌な予感がした。


「まさかとは思いますが」


「そのまさかだ」


 陛下は顔を上げた。


「ミラ・リースを、私の仮婚約者とする」


 リディア様が目を見開いた。

 ノア様は、予想していたのかしていなかったのか、ひどく苦い顔をした。


 私はしばらく言葉を失った。


 花冠院の下級修復師。

 家名だけはあるが、ほとんど平民に近い娘。

 王宮の失敗品を片づけていた私が、王の仮婚約者。


「なぜ、そんな」


「王家の花冠に継続して触れる口実が必要だ。君を守る名目もいる。下級修復師を毎夜封印花廊へ呼べば、三日で消される」


「仮婚約者なら消されないと?」


「消しにくくはなる」


 まったく安心できない答えだった。


「拒否権は」


 陛下は少しだけ黙った。


「ある」


 また、意外な答えだった。


「拒めば、今夜の記憶に封印をかけ、遠い修道院へ送る。暮らしは保証する。花冠院には戻れない」


「受ければ」


「貴族院、花冠院、王宮の全てから疑われる。ヴァーン家は敵に回る。セレスティア嬢も君を快くは思わないだろう」


「陛下は」


 私の声は、自分でも驚くほど小さかった。


「陛下は、私をどう思いますか」


 陛下の金色の目が、少しだけ揺れた。


「危険な修復師だ」


「それだけですか」


「今は、それ以上に言えるほど君を知らない」


 正直な人だと思った。


 王としては、もっと飾った答えができるはずだ。

 けれどこの人は、危険を危険と言い、知らないことを知らないと言う。


 甘くない。

 だから信じられる。


 私は十五番の花冠を見た。


 恐怖で折れ、処分されかけた花。

 私がここで逃げれば、この花はどうなるだろう。

 戴冠花冠の黒い鱗はどうなるだろう。

 誰かの弟の名を奪った呪いは、また誰かの大切なものを奪うだろう。


 私は下級修復師だ。

 大きな国のことなど分からない。


 でも、目の前の花を処分棚へ置けないことだけは分かる。


「一つ、条件があります」


 ノア様がまた眉を上げた。


 陛下は静かに言う。


「言え」


「十五番の再調査を、王命で正式に行ってください。持ち主の名誉回復まで」


「自分の身より、その花冠か」


「私が見捨てたら、私が修復師でいる理由がなくなります」


 陛下は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 笑みと呼ぶには短すぎる。

 けれど、初めて見る表情だった。


「よかろう。十五番は王命で再調査する」


「ありがとうございます」


「それで、答えは」


 私は息を吸った。


 花の墓場から、王の秘密へ。

 処分棚から、貴族院の視線へ。

 逃げ道は狭く、代償は重い。


 それでも。


「お受けします」


 陛下は頷いた。


「なら、明朝告示を出す」


「明朝?」


「早い方がいい。遅れれば、君を消す相談をする時間を与える」


 それはそうかもしれない。

 そうかもしれないが、もう少し柔らかい言い方はなかったのだろうか。


 ノア様が書類を取りに出ていく。

 リディア様は頭を抱えた。


「花冠院がひっくり返るわ」


 陛下は淡々と言った。


「すでに腐っているなら、ひっくり返した方がよい」


 私は十五番の箱を抱えた。


 その中で、恐怖で震えていた花冠が、ほんの少しだけ静かになった気がした。


 夜が明ける。


 第三修復室の下級修復師ミラ・リースは、王の仮婚約者になる。


 王宮中の花が、その知らせにどう反応するのか。


 私はまだ知らなかった。


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