表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/32

第4話 記憶を奪う眠り

 封印花廊から出た時、夜はまだ明けていなかった。


 王宮の廊下には、花灯りが低くともっている。

 白い壁に蔓の影が伸び、誰もいないはずの角から小さな囁き声が聞こえるような気がした。


 私は十五番の箱を抱えたまま、ノア様の後ろを歩いていた。

 アシュレイ陛下は少し先を行く。歩き方はまっすぐで、背筋も乱れていない。


 けれど、袖口からのぞく指先がわずかに震えていた。


 眠らない人の震えだ。


 私がそれを見ていることに気づいたのか、陛下は振り返らずに言った。


「気にするな」


「気になります」


 ノア様が横目で私を見た。

 王に向かってそんな返事をする下級修復師は、たぶんあまりいない。


 陛下は怒らなかった。


「君は恐れを知らないのか」


「さきほどからずっと怖いです」


「そうは見えない」


「恐怖を読むと、少し鈍ることがあります」


 言ってから、しまったと思った。


 陛下が足を止める。

 ノア様も止まる。


「代償の話か」


「……はい」


「詳しく話せ」


 命令ではなかった。

 けれど、逃げられる声でもなかった。


 私は花冠を読んだあとのことを説明した。

 味が分からなくなること。

 匂いが遠ざかること。

 怒りや喜びが鈍ること。

 戻る時もあるが、完全には戻らない時もあること。


 ノア様の表情が険しくなった。


「それを隠して花冠院で働いていたのか」


「言えば働けなくなります」


「当然だ」


「働けなくなれば、壊れた花冠を誰も保留箱に入れません」


 ノア様は言葉に詰まった。


 アシュレイ陛下は、しばらく黙っていた。

 やがて、低く言う。


「魔法に代償がないという者は、嘘をついているか、まだ支払っていないだけだ」


 その言い方が、あまりにも自分のことのようだった。


「陛下も、支払っているのですか」


 ノア様が息をのむ。


 陛下は私を見る。

 金色の瞳の奥に、冷たさではなく、疲れた諦めがあった。


「支払わないために、支払い続けている」


 意味が分からなかった。

 けれど、その言葉が胸に残った。


 案内されたのは、寝室だった。


 正確には、寝室として作られた書庫だった。


 大きな寝台はある。

 けれど使われた形跡がない。枕は硬く整えられ、毛布には折り目が残っている。

 代わりに、机には書類が積まれ、冷めた茶が三杯分置かれていた。


 壁際には、眠気覚ましの香草が束ねられている。

 窓辺には、夜でも閉じない白い花。


 この部屋は眠るためではなく、眠らないために作られていた。


「座れ」


 陛下に促され、私は椅子に腰かけた。

 ノア様は扉の前に立つ。


 陛下は机の上の小箱を開けた。


 中には、小さな札がいくつも入っていた。

 人名と日付。

 そして、短い記録。


 侍女マリー。母の顔を忘れる。

 庭師ロアン。妻の声を忘れる。

 近衛テオ。剣を握る理由を忘れる。


 私は息を呑んだ。


「私が最後に眠った年の記録だ」


 陛下は言った。


「眠るたび、誰かが何かを忘れた。最初は偶然だと思った。次に呪いだと知った。三度目で、私は眠るのをやめた」


「十年、ですか」


「完全に眠らなかったわけではない。気絶に近い短い落下はある。そのたびに、誰かの記憶が削れる」


 陛下の声は平坦だった。

 平坦すぎて、聞いている方が痛くなる。


「奪った記憶は、陛下の中に残るのですか」


「残らない。ただ、誰かから大切なものが消えたことだけが分かる」


 私は札を見つめた。


 母の顔。

 妻の声。

 剣を握る理由。


 どれも、他人から見れば小さい記憶かもしれない。

 けれど本人にとっては、その人をその人にしている根だ。


 陛下は、それを奪うことを恐れて十年眠らなかった。


 眠らない竜王。

 冷酷な王。

 夜も玉座を離れない王。


 噂は、いつだって外側だけを花冠にする。


「君は、私の呪いを読んだ」


 陛下が言う。


「だから、君には知る権利がある。だが同時に、逃げる権利もある」


「逃げたら、記憶を封じて修道院でしたね」


「そうだ」


「それは逃げたことになりますか」


 陛下が少しだけ黙った。


「ならないかもしれない」


 私は小箱の札を一枚、指先でなぞった。

 侍女マリー。

 母の顔を忘れる。


「この人たちは、陛下を恨んでいますか」


「分からない。恨む理由が分からなくなる者もいる」


「陛下は」


「恨まれた方が楽だ」


 その言葉は、あまりにも静かだった。


 私は、自分の中の恐怖がまだ鈍いことに気づいた。

 本当なら、王の呪いなど恐ろしくて仕方がないはずだ。

 でも今は、恐怖より先に別の感情が来た。


 この人を、一度でいいから眠らせたい。


 誰の記憶も奪わずに。


 そう思ってしまった。


「陛下」


「何だ」


「花冠は、一つの誓約を複数の花で支えます」


 陛下の目が動いた。


「王の眠りも、誰か一人から奪うのではなく、複数の花で支える方法があるかもしれません」


「呪いを分けると?」


「呪いではなく、眠りを」


 ノア様が低く言った。


「危険だ」


「はい」


「理論もない」


「はい」


「それでも言うのか」


「はい」


 陛下は長く私を見ていた。


 やがて、疲れたように笑った。


「君は残酷だ」


「すみません」


「違う。希望を差し出す者は、絶望より残酷なことがある」


 私は返す言葉を探した。


 その時、机の上の戴冠花冠の写し絵が、かすかに黒く滲んだ。


 花冠本体は封印花廊にある。

 それなのに、写し絵の中央に小さな鱗が浮いた。


 陛下の顔色が変わる。


「ノア」


「はい」


「花冠院を封鎖しろ。今夜のことを知る者を外へ出すな」


「承知しました」


 ノア様が出ていく。


 部屋には、私と陛下だけが残った。


 写し絵の黒い鱗は、じわじわと広がっている。


 私は息を呑んだ。


「陛下。これは、こちらを見ています」


「花冠が?」


「いいえ」


 喉が乾く。


 黒い残響の奥にあった金色の目。

 あれは眠っているはずの何かだった。


「竜が」


 窓の外、夜明け前の空が一瞬だけ暗くなった。


 遠い森の方角で、低い寝息のような音がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ