第3話 眠らない竜王
戴冠花冠の前に立った時、私は初めて王宮の静けさを怖いと思った。
第三修復室は、花の墓場だ。
枯れた花、折れた蔓、腐りかけたリボン、消えかけた香り。そこには死に近いものばかりが集まっている。
けれど封印花廊の静けさは、違った。
ここにある花冠は、まだ生きている。
王家、騎士団、同盟国、神殿、古い貴族家。
国を動かす誓約が、息を潜めて眠っている。
その中心で、戴冠花冠だけが黒く傷んでいた。
私は銀針を出さなかった。
これは針で探るものではない。
指先で、黒い鱗に触れる。
世界が反転した。
深い森。
折れた角。
血の味。
眠っている子ども。
王冠を抱いた男。
約束したはずだ。
花を絶やさないと。
記憶を奪わないと。
竜を眠らせたままにしないと。
声が聞こえた。
違う。
これは誓約花の感情ではない。
もっと古い。
もっと大きい。
花冠に絡みついた、誰かの怒り。
暗闇の底で、巨大な金色の目が開いた。
眠れ。
声がした。
眠れば、奪え。
奪えば、忘れろ。
忘れれば、王でいられる。
息ができない。
誰かが私の手首をつかんだ。
強い力で、花冠から引き離される。
視界が戻った。
祭壇。
燭台。
白い扉。
目の前に、王の顔があった。
近い。
アシュレイ陛下が、私の手首をつかんでいる。
「戻れ」
冷たい声が、今だけ必死に聞こえた。
「ミラ・リース。戻れ」
私は何度か瞬きをした。
杏の砂糖漬けの味を思い出せない。
それどころか、甘いという感覚が遠い。
でも、今失ったのはそれだけではない気がした。
王の手は冷たかった。
冷たいのに、震えていた。
「陛下」
自分の声が、ひどく遠い。
「これは、眠れない呪いではありません」
ノア様が一歩踏み出した。
「何を言っている」
王は何も言わなかった。
金色の目だけが、私を見ていた。
私は喉の奥に残った黒い匂いを飲み込む。
「陛下は、眠れないんじゃない」
言ってはいけないことだと分かっていた。
王宮の奥で、王の前で、王家の戴冠花冠に触れて。
下級修復師が口にしていい言葉ではない。
それでも、花冠が最後に守ろうとしていたものが分かってしまった。
この花冠は、王を縛っているのではない。
王が何かを奪わないよう、必死に押しとどめている。
「陛下は、眠ると誰かの記憶を奪ってしまう」
封印花廊の空気が凍った。
ノア様が剣の柄に手をかける。
王は、私の手首を離さなかった。
「誰から聞いた」
声は静かだった。
だからこそ、怖かった。
「花冠からです」
「嘘なら死ぬぞ」
「嘘なら、花はこんなふうに枯れません」
王の指に力がこもる。
痛かった。
けれど私は目をそらせなかった。
長い沈黙のあと、王は低く笑った。
楽しい笑いではなかった。
喉の奥で砕けるような、疲れ切った笑いだった。
「十年だ」
王は言った。
「十年、誰もそこまで辿り着かなかった」
ノア様の顔色が変わった。
「陛下」
「ノア。剣を抜くな」
「しかし」
「彼女は真実を読んだ」
王は私の手首を離した。
そこに薄く赤い跡が残っている。
「ミラ・リース」
「はい」
「今夜見たことを口外すれば、君だけでなく、君の家名も消える」
「分かっています」
「だが黙っていても、君はもう第三修復室には戻れない」
胸の奥が冷えた。
花の墓場。
顔を見せない上司。
誰も私の判断を聞かない部屋。
戻りたい場所だったかと問われれば、そうではない。
それでも、私が唯一持っていた居場所だった。
「では、私はどうなるのでしょうか」
王は黒く枯れた戴冠花冠を見た。
その横顔は、噂よりもずっと若く見えた。
そして、ずっと孤独に見えた。
「君には、この花冠を読んでもらう」
「修復師としてですか」
「表向きは」
嫌な予感がした。
王宮で、表向きという言葉が出る時、たいてい裏にろくでもないものがある。
「表向きではない方は?」
アシュレイ陛下は、少しだけ目を伏せた。
「私の呪いを、誰にも知られず調べる者として」
「それは、私が選べることですか」
ノア様が驚いたように私を見た。
下級修復師が王命に選択を求めたからだろう。
王は怒らなかった。
「選べる」
その答えが、いちばん予想外だった。
「拒めば、今夜の記憶に封印をかけ、遠い修道院へ送る。暮らしは保証する。花冠院には戻れない」
「受ければ」
「貴族院、花冠院、王宮の全てから疑われる。私の近くにいる限り、君は眠れない王の呪いに触れ続ける。代償も支払うことになる」
ひどい二択だ。
でも、王は嘘をつかなかった。
甘い言葉もなかった。
選んだ先にある危険を、隠さなかった。
私は祭壇の上の戴冠花冠を見た。
黒い鱗のような染み。
焦げた約束の匂い。
眠れば奪え、という古い呪い。
それから、十五番の婚約花冠を見た。
誰かに裏切りを押しつけられ、恐怖を抱いたまま処分されかけていた花。
誓約花は嘘を暴く。
けれど、暴くだけでは誰も救えない。
直さなければ、花は枯れる。
「一つ、条件があります」
ノア様が信じられないものを見る目をした。
王は表情を変えない。
「言え」
「十五番の婚約花冠を、正式に再調査してください」
王の眉がわずかに動いた。
「自分の身より、処分予定の花冠か」
「私が見捨てたら、私が修復師でいる理由がなくなります」
封印花廊に、静かな香りが満ちていた。
眠りを誘う、重い花の香り。
王は長く私を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ息を吐いた。
「よかろう。十五番は王命で再調査とする」
「ありがとうございます」
「それで、答えは」
私は膝をつかなかった。
王が最初に不要だと言ったから。
代わりに、修復師として背筋を伸ばした。
「お受けします。陛下の花冠を読みます」
王の金色の瞳が、燭台の光を受けて細く揺れた。
「ならば今夜から、君は私の秘密だ」
甘い言葉ではない。
愛の誓いでもない。
それは、王宮で最も危険な花冠に編み込まれるという宣告だった。
それでも私は、逃げなかった。
祭壇の上で、黒く枯れた戴冠花冠が、ほんのわずかに香りを変えた。
焦げた約束の奥に、一瞬だけ、春の土の匂いがした。




