第2話 黒い騎士の呼び出し
翌朝、第三修復室の扉は開かなかった。
いつもなら夜明けの鐘が二つ鳴る頃には、処分待ちの花冠を載せた台車が運ばれてくる。下級修復師たちは眠そうな顔で銀盆を並べ、昨日の記録札を束ね、上級修復師の指示を待つ。
けれどその日は、廊下が妙に静かだった。
静かすぎる廊下は、王宮では不吉だ。
私は保留箱を机の下に移し、十五番の婚約花冠に布をかけた。
昨夜からずっと、小さな震えが止まらない。
花が怯えている。
あるいは、私が怯えている。
「ミラ」
同僚の下級修復師パウルが、小声で言った。
「聞いたか。封印花廊で夜通し点検があったらしい。上級修復師が三人倒れたって」
「倒れた?」
「眠ったんだと」
「それだけ?」
「花冠院では、それだけじゃないだろ。王家の花冠を前に居眠りなんて、処罰ものだ」
私は言葉を返せなかった。
眠り。
その言葉が、やけに重く聞こえた。
王宮では、アシュレイ陛下の話になると必ず眠りの噂がついて回る。
竜の血を引くから眠らない。
暗殺を恐れて眠らない。
死んだ婚約者を忘れられず眠れない。
噂はどれも、噂らしく派手だ。
けれど今朝の廊下の静けさは、もっと現実的な匂いがした。
花冠院の鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ。
緊急召集の合図だ。
下級修復師たちは顔を見合わせた。第三修復室に緊急召集がかかることはない。私たちは花冠院の端にいる。火事でもなければ呼ばれない。
それなのに、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
重い靴音。
花冠院の柔らかい室内靴ではない。
軍靴だ。
扉が開く。
黒い騎士服の男が立っていた。
肩章には王宮近衛の銀竜。腰の剣には封印布が巻かれている。
王族警護の騎士。
第三修復室の空気が凍った。
「ミラ・リースはいるか」
私は立ち上がった。
「私です」
騎士は私を見る。
年は二十代後半だろうか。鋭い目をしている。乱暴な印象はない。けれど、遠回りを嫌う人だとすぐ分かった。
「来い」
「どちらへ」
「質問は許可されていない」
ずいぶん王宮らしい返事だった。
私は机の下の保留箱へ目をやった。
騎士はその視線を見逃さなかった。
「持っているものを出せ」
「作業中の保留品です」
「命令だ」
第三修復室の全員が私を見ている。
ここで拒めば、保留箱ごと取り上げられる。
私は十五番の婚約花冠を入れた箱を抱えた。
騎士の眉がわずかに動く。
「それが十五番か」
「ご存じなのですか」
「君が処分を止めたことは、上に伝わっている」
上。
花冠院長か、王宮か。
どちらにしても、いい響きではなかった。
「私はノア・フェルゼン。陛下の近衛だ」
騎士は短く名乗り、踵を返した。
「箱を持ってついてこい。落とすな」
廊下へ出ると、花冠院の空気がいつもと違っていた。
上級修復師たちが壁際に並んでいる。
誰も話さない。
院長室へ続く扉の前には、王宮騎士が二人。
花の香りより、磨かれた鎧の冷たい匂いが強かった。
私はノア様の後ろを歩きながら、声を低くした。
「十五番の花冠が関係しているのですか」
「質問は許可されていない」
「では確認です」
「同じだ」
「私が何か罪に問われるのでしょうか」
ノア様は少しだけ振り返った。
「罪に問われる可能性は常にある」
「励ましが下手ですね」
「励ましていない」
ひどく真面目な声だったので、少しだけ怖さが薄れた。
けれど進む先に気づいて、また息が詰まった。
私たちは花冠院の奥、封印花廊へ向かっていた。
王家の誓約花が保管される場所。
下級修復師が入れば、一生分の叱責では足りない場所だ。
白い扉の前で、ノア様は立ち止まった。
扉には生きた蔓が絡み、銀色の蕾がいくつも閉じている。
ノア様が紋章入りの短剣で親指を浅く切り、血を一滴落とすと、蕾が一斉に開いた。
甘い香りが流れ出す。
重く、古く、眠りを誘う香りだった。
私は思わず一歩下がった。
「入れ」
「下級修復師が入ってよい場所ではありません」
「今は陛下の命令が優先される」
「陛下が?」
ノア様は答えなかった。
扉が開く。
中は、白い花で満ちていた。
壁の溝には乾かない水が流れ、硝子の祭壇がいくつも並んでいる。花冠はそれぞれ透明な覆いの中に収められ、淡い光を放っていた。
どれも、私が触れることなど許されない花冠だ。
その最奥に、ひときわ大きな祭壇があった。
祭壇の前に、誰かが立っている。
黒に近い深紺の礼服。
銀糸で縫われた竜の紋。
青白い横顔。
肩まで届く黒髪の先が、燭台の光を受けてかすかに揺れている。
眠らない竜王。
アシュレイ・リュミエール陛下。
私は反射的に膝をつこうとした。
「不要だ」
低い声が落ちる。
冷たい声だった。
けれど、疲れていた。
王は祭壇から目を離さないまま言った。
「ミラ・リース。第三修復室の下級修復師だな」
「はい」
「十五番を持っているか」
私は箱を抱え直した。
「はい」
「開けろ」
命じられ、私は祭壇の端に十五番の婚約花冠を置いた。
王は触れない。ただ、じっと見た。
「恐怖反応、と記録したそうだな」
「はい」
「誰に教わった」
「誰にも」
王の金色の瞳が、初めて私を見た。
竜の血を引く王族の証だと言われる色。
けれどその瞳の下には、濃い影が沈んでいた。眠っていない人の影だ。何日も、何十日も、もしかすると何年も。
「なら、君自身の読みか」
「……はい」
「よろしい」
王は祭壇の中央へ視線を戻した。
そこに置かれていた花冠を見て、私は息を忘れた。
戴冠花冠。
王位を継ぐ者が、国と民へ誓うための花冠。
古い白薔薇、金の月桂樹、銀葉の竜草で編まれている。王国でもっとも強い誓約花の一つだ。
その花冠の中央、額に当たる部分が黒く枯れていた。
腐敗ではない。
裂傷でもない。
焼け跡でもない。
黒い鱗のようなものが、花の根元から浮いていた。
「これを読めるか」
王の声に、命令の響きはなかった。
だからこそ怖かった。
私は唇を湿らせた。
「陛下。私は下級修復師です」
「知っている」
「王家の花冠に触れる資格はありません」
「資格のある者たちが、今夜は役に立たなかった」
ノア様がわずかに目を伏せた。
倒れた上級修復師たち。
眠り。
封印花廊の重い香り。
私は十五番の花冠を見た。
恐怖で折れた婚約花冠が、黒い戴冠花冠に怯えるように震えている。
花は嘘をつかない。
でも、人は花に嘘をつかせようとする。
なら、この黒い鱗は誰の嘘なのだろう。
「触れても、よろしいですか」
私が言うと、王はわずかに目を細めた。
「許可する」
私は一歩、祭壇へ近づいた。
その瞬間、黒い鱗が小さく鳴った。
まるで、眠っていた何かが、私の足音で目を覚ましたみたいに。




