表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/33

第1話 花の墓場の修復師

 王宮の花冠院には、捨ててもよい花冠だけが運ばれてくる部屋がある。


 正式な名前は、第三修復室。

 けれど、そこで働く者はみんな知っていた。

 ここは修復室ではない。花の墓場だ。


 割れた婚約花の小箱。

 棘だけが残った忠誠の花輪。

 香りを失った祝福の房飾り。

 誰かが一生をかけて結んだはずの誓いが、ここでは番号札をつけられ、銀盆の上に並べられ、腐る前に処分される順番を待っている。


 私はその銀盆を一つずつ確かめながら、枯れた花びらを小瓶へ移していた。


「ミラ・リース。今日中に二十七番まで終わらせておきなさい」


 扉の向こうから、上級修復師の声が落ちてきた。

 顔は見えない。見る必要もない。第三修復室に指示を出す人たちは、たいてい顔を見せない。


「はい」


 返事をすると、靴音はすぐに遠ざかった。


 花冠院で働く修復師は、三つに分けられる。

 王家や大貴族の儀礼花冠を扱う上級修復師。

 商会や騎士団や地方貴族の誓約花を扱う正修復師。

 そして、私のような下級修復師。


 下級修復師の仕事は、壊れた花冠を洗い、分類し、状態を記録し、上の人が判断しやすいように整えることだ。

 直すことではない。

 ましてや、花がなぜ壊れたのかを考えることでもない。


 それでも私は、ときどき考えてしまう。


 この花は、本当に捨てていいのだろうか。


 十五番の札がついた小さな花冠を手に取った時も、そうだった。


 白いエルダーフラワーを基調に、薄青のリボンで編まれている。婚約の花冠だろう。花びらの縁は茶色く縮み、中心には黒い染みが浮いていた。


 不誠実な誓約花は、根元から腐る。

 破られた誓約花は、花弁から裂ける。

 未練の残った誓約花は、香りだけがいつまでも残る。


 これは、そのどれとも違った。


「……怖がってる」


 思わず声が出た。


 誓約花は言葉を話さない。

 けれど、壊れた花には最後に守ろうとした感情が残ることがある。

 普通の修復師は色や香りや形から状態を読む。私はそれに加えて、花の奥に残った感情の影を拾ってしまう。


 便利な力だと、昔は思っていた。

 今は、そうでもない。


 私は作業台の引き出しから細い銀針を取り出し、黒い染みの中心に軽く触れた。


 次の瞬間、冷たいものが喉の奥へ流れ込んだ。


 暗い部屋。

 閉じた扉。

 泣く声。

 誰かが、何度も同じ言葉を繰り返している。


 違う。

 違う。

 違う。

 私は裏切っていない。


 胸がきゅっと縮んだ。

 花冠から指を離す。


 作業台の上に置いていた砂糖菓子の匂いが、急に分からなくなった。

 朝、市場で買った杏の砂糖漬けだ。好きだったはずなのに、目の前にあるそれは、ただの橙色のかけらにしか見えなかった。


「また、持っていかれた」


 小さく息を吐く。


 枯れた誓約花の感情を読むたび、私の中の何かがしばらく鈍る。

 味だったり、匂いだったり、怒りだったり、嬉しさだったりする。

 戻る時もあれば、戻りにくい時もある。


 だから上級修復師には黙っている。

 こんな力は、花冠院では便利な道具として使い潰されるだけだ。


 私は十五番の記録札を裏返した。


 持ち主は、エミリア・ヴァーン。

 ヴァーン公爵家分家の娘。

 破損理由は「婚約者への不誠実」。

 処分承認済み。


 書類だけを見れば、何も問題はない。

 不誠実な婚約花冠は焼却され、家名の記録からも外される。花冠院がそう判断すれば、社交界ではそれが真実になる。


 けれど、この花は不誠実で枯れたのではない。

 恐怖で折れた。


 私は札の余白に小さく書き足した。


 恐怖反応。破談処分不可。再調査。


 それから、処分棚ではなく保留箱へ入れる。


 どうせ明日には戻される。

 下級修復師の判断など、王宮では風に落ちた花びらほどの重みもない。


 それでも、処分棚へ置くことだけはできなかった。


 夕刻、上級修復師のリディア・カロル様が第三修復室へ来た。


 上級修復師がこの部屋へ来ることは珍しい。しかもリディア様は、いつもの穏やかな顔ではなく、ひどく疲れた目をしていた。


「今日の処分予定品を見せて」


「はい」


 私は銀盆を並べた。

 リディア様は一つずつ確認し、十五番のところで手を止めた。


「これは処分棚ではなく保留箱に?」


「はい」


「理由は」


 私は一瞬迷った。

 残響を読めるとは言えない。

 言えば、私の仕事は変わる。たぶん、悪い方へ。


「不誠実の枯れ方ではありません」


「それだけ?」


「花冠の中心に、強い恐怖反応があります」


 リディア様の目が、わずかに細くなった。


 しまったと思った。

 普通の下級修復師は、そんな言い方をしない。


 けれどリディア様は叱らなかった。

 ただ、十五番の花冠をそっと持ち上げ、裏側のリボンを確認した。


「あなた、これを誰かに見せた?」


「いいえ」


「なら、今夜は誰にも話さないで」


「どういうことですか」


 リディア様は答えず、花冠を保留箱へ戻した。


「ミラ。花冠院では、花を正しく読むことより、花を正しく読んだことにしなければならない時がある」


 嫌な言葉だった。


「それは、偽るということですか」


「そう聞こえたなら、忘れなさい」


「忘れられません」


「なら、覚えていることを顔に出さない練習をして」


 リディア様は扉へ向かった。

 出ていく直前、低い声で言う。


「今夜、王家の封印花廊で点検がある。戴冠花冠に異常が出たらしいわ」


「王家の花冠に?」


「ええ。上級修復師が全員呼ばれている」


 私には関係のない話のはずだった。

 王家の戴冠花冠。

 眠らない竜王。

 封印花廊。


 第三修復室の下級修復師が触れていいものではない。


 それなのに、リディア様は私を見た。


「もし明日、あなたが何かを聞かれても、十五番のことは自分から話さないで」


「なぜですか」


「花の墓場で、まだ生きている花を見つけた人間は、墓守から嫌われるからよ」


 扉が閉まった。


 私は一人、第三修復室に残された。


 窓の外では、春祭りの白銀の蔓が夕日を受けて光っている。

 作業台の上には、匂いの分からなくなった杏の砂糖漬け。

 保留箱の中には、恐怖で折れた十五番の婚約花冠。


 そして王宮の奥では、王家の戴冠花冠に異常が出ている。


 花は嘘をつかない。


 でも、人は花に嘘をつかせようとする。


 私はそのことを、この時まだ半分しか知らなかった。


 夜になっても、第三修復室の灯りを消せなかった。


 十五番の花冠が、箱の中でかすかに震えていたからだ。


 まるで、遠くにあるもっと大きな花冠の異常に怯えているみたいに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ