第1話 花の墓場の修復師
王宮の花冠院には、捨ててもよい花冠だけが運ばれてくる部屋がある。
正式な名前は、第三修復室。
けれど、そこで働く者はみんな知っていた。
ここは修復室ではない。花の墓場だ。
割れた婚約花の小箱。
棘だけが残った忠誠の花輪。
香りを失った祝福の房飾り。
誰かが一生をかけて結んだはずの誓いが、ここでは番号札をつけられ、銀盆の上に並べられ、腐る前に処分される順番を待っている。
私はその銀盆を一つずつ確かめながら、枯れた花びらを小瓶へ移していた。
「ミラ・リース。今日中に二十七番まで終わらせておきなさい」
扉の向こうから、上級修復師の声が落ちてきた。
顔は見えない。見る必要もない。第三修復室に指示を出す人たちは、たいてい顔を見せない。
「はい」
返事をすると、靴音はすぐに遠ざかった。
花冠院で働く修復師は、三つに分けられる。
王家や大貴族の儀礼花冠を扱う上級修復師。
商会や騎士団や地方貴族の誓約花を扱う正修復師。
そして、私のような下級修復師。
下級修復師の仕事は、壊れた花冠を洗い、分類し、状態を記録し、上の人が判断しやすいように整えることだ。
直すことではない。
ましてや、花がなぜ壊れたのかを考えることでもない。
それでも私は、ときどき考えてしまう。
この花は、本当に捨てていいのだろうか。
十五番の札がついた小さな花冠を手に取った時も、そうだった。
白いエルダーフラワーを基調に、薄青のリボンで編まれている。婚約の花冠だろう。花びらの縁は茶色く縮み、中心には黒い染みが浮いていた。
不誠実な誓約花は、根元から腐る。
破られた誓約花は、花弁から裂ける。
未練の残った誓約花は、香りだけがいつまでも残る。
これは、そのどれとも違った。
「……怖がってる」
思わず声が出た。
誓約花は言葉を話さない。
けれど、壊れた花には最後に守ろうとした感情が残ることがある。
普通の修復師は色や香りや形から状態を読む。私はそれに加えて、花の奥に残った感情の影を拾ってしまう。
便利な力だと、昔は思っていた。
今は、そうでもない。
私は作業台の引き出しから細い銀針を取り出し、黒い染みの中心に軽く触れた。
次の瞬間、冷たいものが喉の奥へ流れ込んだ。
暗い部屋。
閉じた扉。
泣く声。
誰かが、何度も同じ言葉を繰り返している。
違う。
違う。
違う。
私は裏切っていない。
胸がきゅっと縮んだ。
花冠から指を離す。
作業台の上に置いていた砂糖菓子の匂いが、急に分からなくなった。
朝、市場で買った杏の砂糖漬けだ。好きだったはずなのに、目の前にあるそれは、ただの橙色のかけらにしか見えなかった。
「また、持っていかれた」
小さく息を吐く。
枯れた誓約花の感情を読むたび、私の中の何かがしばらく鈍る。
味だったり、匂いだったり、怒りだったり、嬉しさだったりする。
戻る時もあれば、戻りにくい時もある。
だから上級修復師には黙っている。
こんな力は、花冠院では便利な道具として使い潰されるだけだ。
私は十五番の記録札を裏返した。
持ち主は、エミリア・ヴァーン。
ヴァーン公爵家分家の娘。
破損理由は「婚約者への不誠実」。
処分承認済み。
書類だけを見れば、何も問題はない。
不誠実な婚約花冠は焼却され、家名の記録からも外される。花冠院がそう判断すれば、社交界ではそれが真実になる。
けれど、この花は不誠実で枯れたのではない。
恐怖で折れた。
私は札の余白に小さく書き足した。
恐怖反応。破談処分不可。再調査。
それから、処分棚ではなく保留箱へ入れる。
どうせ明日には戻される。
下級修復師の判断など、王宮では風に落ちた花びらほどの重みもない。
それでも、処分棚へ置くことだけはできなかった。
夕刻、上級修復師のリディア・カロル様が第三修復室へ来た。
上級修復師がこの部屋へ来ることは珍しい。しかもリディア様は、いつもの穏やかな顔ではなく、ひどく疲れた目をしていた。
「今日の処分予定品を見せて」
「はい」
私は銀盆を並べた。
リディア様は一つずつ確認し、十五番のところで手を止めた。
「これは処分棚ではなく保留箱に?」
「はい」
「理由は」
私は一瞬迷った。
残響を読めるとは言えない。
言えば、私の仕事は変わる。たぶん、悪い方へ。
「不誠実の枯れ方ではありません」
「それだけ?」
「花冠の中心に、強い恐怖反応があります」
リディア様の目が、わずかに細くなった。
しまったと思った。
普通の下級修復師は、そんな言い方をしない。
けれどリディア様は叱らなかった。
ただ、十五番の花冠をそっと持ち上げ、裏側のリボンを確認した。
「あなた、これを誰かに見せた?」
「いいえ」
「なら、今夜は誰にも話さないで」
「どういうことですか」
リディア様は答えず、花冠を保留箱へ戻した。
「ミラ。花冠院では、花を正しく読むことより、花を正しく読んだことにしなければならない時がある」
嫌な言葉だった。
「それは、偽るということですか」
「そう聞こえたなら、忘れなさい」
「忘れられません」
「なら、覚えていることを顔に出さない練習をして」
リディア様は扉へ向かった。
出ていく直前、低い声で言う。
「今夜、王家の封印花廊で点検がある。戴冠花冠に異常が出たらしいわ」
「王家の花冠に?」
「ええ。上級修復師が全員呼ばれている」
私には関係のない話のはずだった。
王家の戴冠花冠。
眠らない竜王。
封印花廊。
第三修復室の下級修復師が触れていいものではない。
それなのに、リディア様は私を見た。
「もし明日、あなたが何かを聞かれても、十五番のことは自分から話さないで」
「なぜですか」
「花の墓場で、まだ生きている花を見つけた人間は、墓守から嫌われるからよ」
扉が閉まった。
私は一人、第三修復室に残された。
窓の外では、春祭りの白銀の蔓が夕日を受けて光っている。
作業台の上には、匂いの分からなくなった杏の砂糖漬け。
保留箱の中には、恐怖で折れた十五番の婚約花冠。
そして王宮の奥では、王家の戴冠花冠に異常が出ている。
花は嘘をつかない。
でも、人は花に嘘をつかせようとする。
私はそのことを、この時まだ半分しか知らなかった。
夜になっても、第三修復室の灯りを消せなかった。
十五番の花冠が、箱の中でかすかに震えていたからだ。
まるで、遠くにあるもっと大きな花冠の異常に怯えているみたいに。




