第68話 一人で背負う誓約
黒い花弁は、それぞれ違う記憶を求めていた。
私の花弁には、母の手の匂い。
アシュレイ陛下の花弁には、王妃エリシアの声。
ノア様の花弁には、騎士になった日の朝。
リディア様には、花冠院で初めて誓約花を咲かせた日の光。
イオには、修復師を目指すと決めた夜。
カッサには、最初に無花者の冠を編んだ子の笑顔。
トマには、母親に名前を呼ばれた記憶。
竜は残酷だ。
けれど、無意味に奪おうとしているわけではない。
大切な記憶を一つずつ置けば、眠りの道を開く。
そういう古い試練なのだろう。
アシュレイ陛下が言った。
「私の記憶を取れ」
森がざわめく。
私はすぐ首を振った。
「だめです」
「王家の罪だ」
「王家の罪でも、陛下一人の記憶で払うのは違います」
「なら君の母の記憶を差し出すのか」
彼の声は鋭かった。
私を傷つけるためではない。
私が簡単に言っているわけではないと確かめるためだ。
私は黒い花弁を握る。
母の手。
壊れた婚約花。
花を見捨てないという核。
それを失えば、私は私でいられるだろうか。
「差し出しません」
私は言った。
竜の目が細くなる。
では、返さないのか。
「返します。でも、大切なものを奪い合う形では返しません」
森が怒る。
黒い花弁が舞い上がり、眠りの圧が強くなった。
膝が震える。
それでも、言葉を続けた。
「先代王は、国を守るためと言って人の恐怖を奪いました。竜は今、奪われたものを返せと言っています。でも大切な記憶を奪って道を開くなら、形が逆になっただけです」
アシュレイ陛下が息をのむ。
竜の目が、私を見つめる。
「一人で背負う誓約を、私は直しません。ほどきます」
白い契約花の蕾が光った。
半開きの花弁が、黒い花弁へ向かう。
私の中で、喜びはまだ完全ではない。
母の痛みも怖い。
でも、今ここで選ぶことは分かる。
「記憶を丸ごと差し出すのではなく、記憶が守っている感情を少しずつ分けます」
リディア様が顔を上げた。
「そんな方法は」
「ありません。だから作ります」
カッサが笑った。
「いいね。公式じゃない方法は嫌いじゃない」
私は花弁を掌に乗せた。
母の手の記憶を失うのではない。
その記憶に結びついた痛みの一部を、眠りの道へ流す。
花を見捨てないと決めた痛み。
母を救えなかった子どもの悔しさ。
全部ではない。
一部だけ。
白い契約花が震える。
アシュレイ陛下が隣に立った。
「私も」
「記憶ではなく、感情の一部を」
「母の声を失わない」
「はい」
陛下は黒い花弁に手を伸ばした。
王妃の声に結びついた罪悪感の一部。
忘れていた自分を責める痛みの一部。
ノア様も一歩出る。
「騎士になった日の誇りは渡しません。命令を疑わなかった恥を少し」
リディア様が続く。
「初めて花を咲かせた光は残します。花冠院の正しさを疑わなかった慢心を」
イオは泣きながら言った。
「修復師になりたい気持ちは残します。何も知らずに憧れていた怖さを少し」
カッサは肩をすくめた。
「最初の子の笑顔は渡さない。守れなかった子の後悔を少し置いてく」
トマは母親を見た。
「名前を呼ばれたのは忘れたくない。花がないのを恥ずかしいと思った気持ちを、少し」
黒い花弁が、一枚ずつ色を薄める。
竜の目が揺れた。
これは古い試練の答えではない。
でも、私たちの答えだ。
大切な記憶を奪わず、そこに絡みついた孤独や恥や罪を少しずつ分ける。
眠りを一人に集めない。
代償も一人に集めない。
森の奥で、竜が長く息を吐いた。
黒い花弁は道になり、私たちの前に敷かれた。
差し出した痛みは消えない。
ただ、少し軽くなった。
私は母の手を覚えている。
そのことに、胸が震えた。
今度の震えは、ちゃんと喜びだった。




