第67話 竜の代償
竜は、花の形で現れた。
地上へ戻った私たちの前で、森の木々が一斉に葉を落とした。落ちた葉は土に触れる前に黒い花弁へ変わり、風もないのに渦を巻く。
花弁の中心に、巨大な目が開いた。
竜の目。
眠たげで、怒っていて、ひどく疲れている目。
トマが母親の後ろに隠れる。
イオは記録板を抱えたまま固まった。
ノア様が剣に手をかける。
「抜くな」
アシュレイ陛下が言った。
ノア様は手を止めた。
竜の目は、陛下だけを見ている。
声は音ではなく、胸の内側に響いた。
返せ。
全員が息をのむ。
何を、とは聞けなかった。
眠り。
記憶。
夢。
名前。
奪われたものすべて。
アシュレイ陛下は一歩前へ出た。
「返す」
竜の目が細くなる。
どうやって。
問いが胸を圧迫する。
陛下は答えられなかった。
今すぐすべてを返す方法などない。
彼が持っているわけでもない。
彼自身も、奪われた眠りの器にされている。
けれど竜は待たない。
黒い花弁が陛下へ集まり始めた。
リディア様が叫ぶ。
「陛下を代償にするつもりです!」
森が、王家から奪い返そうとしている。
先代王の罪を、今の王の体で清算させようとしている。
「だめです」
私は前へ出た。
アシュレイ陛下が振り返る。
「ミラ、下がれ」
「下がりません」
竜の目が私を見る。
修復師。
胸の奥に声が響いた。
直すと言うなら、何を差し出す。
指先が冷える。
代償。
私は感情を少しずつ失っている。
甘さ、喜び、痛みの遅れ。
ここで差し出せと言われたら、何を失うのだろう。
アシュレイ陛下が私の前に立った。
「彼女ではない」
竜の目が怒りを帯びる。
では王か。
「私一人でもない」
陛下の声は震えていた。
それでも、言った。
「一人に集めたことが誤りだった。なら、私一人を代償にしても同じ誤りを繰り返す」
黒い花弁の動きが止まる。
私は息を吸った。
「竜よ」
声が震える。
でも呼びかけた。
「私たちは、まだ返し方を知りません。でも、一人に押しつける返し方はしません」
竜の目が私を貫く。
知るまでに、どれだけ失う。
「失うものを、勝手に決めません」
私は言った。
「花ある者にも、花なき者にも、王にも、民にも、選べる道を作ります」
言葉だけでは足りない。
竜もそう思っている。
黒い花弁が、私たち全員の周囲を囲んだ。
リディア様の手が震える。
ノア様は剣を抜かず、ただ陛下の横に立つ。
イオは泣きそうになりながら記録板を離さない。
カッサは杖を地面に突き立てる。
トマは冠の空白を竜へ向けた。
竜の声がまた響く。
ならば、一つずつ置いていけ。
花弁が、それぞれの前に一枚ずつ落ちた。
記憶を差し出せ、ということだ。
森の試練。
返すとは、口で言うより重い。
アシュレイ陛下が私を見た。
「私が」
「一人ではありません」
私は遮った。
怖い。
でも、ここで譲れば今までと同じになる。
竜は眠りを取り返したい。
森は痛みを覚えている。
でも私たちは、代償を一人に集めないためにここまで来た。
黒い花弁が、私の掌に落ちる。
冷たい。
そこには、私が差し出すかもしれない記憶の匂いがした。
母の手。
私は息を止めた。
竜は、いちばん痛い場所を知っている。




