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第64話 王妃の残響

 夜明け竜胆の花粉を受けると、記憶睡蓮の水面は静かになった。


 黒い点が小さくなり、白い花弁が朝の光を含む。水辺に映る記憶は消えない。ただ、こちらを引きずり込む力だけが弱まっていた。


 私たちは細い石橋を渡ることになった。


 先頭はノア様。

 次にトマとカッサ。

 イオ、リディア様、私。

 最後にアシュレイ陛下。


 だが陛下が橋へ足を乗せた瞬間、水面が揺れた。


 睡蓮の間に、女性の姿が映る。


 淡い金髪。

 白い旅装。

 胸元に、開きかけた夜明け竜胆。


 王妃エリシア。


 アシュレイ陛下が息を止めた。


 水面の王妃は、私たちを見ているようで、遠い過去を見ているようでもあった。


「眠りは器に集めるものではありません」


 声は水の底から聞こえた。


「道へ返すもの。人へ返すもの。忘れた痛みは消えず、名をなくして戻ってくる」


 リディア様が震える声で言う。


「残響です。強い意志が睡蓮に残っている」


 王妃の姿は、幼いアシュレイを抱いていた。


 実際の彼ではない。

 記憶の中の彼だ。


「あなたが王になるなら、眠れない王ではなく、眠りを怖がる人のそばに座れる王になって」


 陛下の喉が動く。


 言葉が出ない。


 私は隣へ行きたいと思った。

 でも橋は細い。


 代わりに、白い契約花の蕾を掲げる。


 半開きの蕾が、王妃の残響に淡く反応した。


「エリシア様」


 私は呼んだ。


 水面の王妃が、わずかにこちらを向く。


「あなたが守ろうとしたものを、教えてください」


 王妃の目に悲しみが浮かぶ。


「守ろうとしたのは、この子だけではありません」


 水面が広がる。


 兵士たちが見えた。

 戦場から戻った若者たち。恐怖の記憶を抜かれ、笑うことも泣くこともできなくなった人々。無花者が夢の逃げ道として集められ、名前を記録されず森へ送られていく。


「王は国を救うと言いました。恐怖を眠らせれば、民は立てると。でも恐怖を奪われた人は、何を避ければいいか分からなくなる。悲しみを奪われた人は、何を大切にしたか分からなくなる」


 私は胸を押さえた。


 感情の代償を知っているから、その怖さが分かる。


 喜びがなくなった朝、私は自分が何を守りたいのか一瞬分からなくなった。


 国全体でそれを行ったのだ。


 先代王は、救いの名で人の痛みを奪った。


「どうすれば戻せますか」


 アシュレイ陛下がやっと声を出した。


 王妃の残響は彼を見る。


「眠りを一人に集めないこと。王が器であることをやめること。花ある者、花なき者、記憶を持つ者、失った者。その全員に、選べるだけの道を返すこと」


「私は」


 陛下の声が震える。


「私は、母上を忘れていた」


「忘れたのではありません」


 王妃の声は、以前私が言った言葉と同じだった。


「奪われたのです。だから、責めるより先に取り戻しなさい」


 水面が光る。


 王妃の胸元の夜明け竜胆が、花粉を散らした。


 それは橋の上の私たちへ降り注ぎ、記憶睡蓮を静かに眠らせる。


 最後に、王妃は私を見た。


「修復師」


「はい」


「壊れた花を直す時、壊れる前に戻そうとしないで」


 息が止まる。


「壊れたあとに残ったものも、その人の一部です。戻すのではなく、続けられる形にして」


 その言葉は、私の手の奥に沈んだ。


 花冠院で教わった修復とは違う。


 元の形へ戻すのではなく、続けられる形へ。


 水面の王妃は薄れていく。


 アシュレイ陛下が一歩前に出た。


「母上」


 その声は、王ではなく子どものものだった。


 王妃は微笑んだ。


「眠りを怖がってもいいのです。怖がったまま、誰かと朝を待ちなさい」


 残響は消えた。


 水辺には白い睡蓮だけが残っている。


 陛下はしばらく動かなかった。


 私は橋の上で、彼の背中を見ていた。


 触れない。

 痛みを奪わない。


 ただ、一緒に残る。


 森の奥で、竜が静かに息をした。


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