第63話 夜明け竜胆を探して
記憶睡蓮の水辺を越えるには、夜明け竜胆が必要だった。
水面に浮かぶ睡蓮は、近づく者の記憶を映す。映された記憶を否定すれば足を取られ、逃げようとすれば眠りに引かれる。リディア様の見立てでは、夜明け竜胆の花粉だけが水面の記憶を一時的に落ち着かせるらしい。
「問題は、夜明け竜胆が咲く場所です」
リディア様は地図にもならない古い写しを広げた。
森の道は変わる。
花の位置も変わる。
ただ、竜胆は「眠りが返りかけた場所」に咲くと書かれていた。
「返りかけた眠り」
イオが首を傾げる。
「奪われた眠りが、本来の持ち主へ戻ろうとした場所でしょうか」
「あるいは、誰かが眠りを一人に集めるのを拒んだ場所」
私は言った。
王妃エリシア。
彼女はこの森で、眠りを返そうとしたのかもしれない。
トマが水辺の反対側を見た。
「あっち、青い匂いがする」
「匂い?」
「うん。朝みたいな」
トマの感覚は独特だ。
けれどここまで彼の案内は正しかった。
私たちは水辺を迂回し、森の奥へ進んだ。
道は狭くなり、木の根が絡み合う。ところどころに古い布の封印が残り、保留糸で息をさせながら進む必要があった。
私は何度も手を出しかけ、そのたびに止めた。
リディア様とカッサが作業する。
イオが記録する。
ノア様が周囲を見る。
陛下が眠りの流れを感じ取る。
トマが道を選ぶ。
私がすべて読まなくても、進める。
その事実は、少し寂しく、同時に救いでもあった。
やがて、倒れた巨木の前に出た。
幹は黒く焦げ、中心から白い根が伸びている。根の先に、青い蕾が三つ。
夜明け竜胆。
けれど蕾の周囲には、黒い糸が巻きついていた。
リディア様の顔が強張る。
「封印糸です。しかも王都式ではなく、王家儀式用」
アシュレイ陛下が近づくと、蕾が震えた。
閉じるのではない。
痛がっている。
「私が離れる」
陛下はすぐ下がった。
でも蕾の震えは止まらない。
私は膝をつき、触れないぎりぎりの距離で見る。
黒い糸は花を縛っているが、花を殺してはいない。むしろ咲く寸前で止めている。開けば何かが起きるから、開かせないように。
「王妃様は、ここまで来たと思います」
私の声は自然に低くなった。
「この竜胆を咲かせようとして、止められた」
リディア様が封印を読む。
「糸の結びに王妃様の修復痕があります。ですが、その上から別の封印が重ねられている」
「先代王か」
陛下の声が冷える。
「可能性が高いです」
カッサが黒い糸を見て鼻を鳴らした。
「ひどい結びだ。強いだけで、花の呼吸を見ていない」
私は道具箱を開けた。
今度は、手を出す必要がある。
でも一人ではない。
「リディア様、封印糸の外側をお願いします。カッサさん、保留糸で花の呼吸を。イオ、結びの順番を記録してください」
皆が頷く。
アシュレイ陛下が私を見る。
「君は」
「最後の感情だけ読みます。深くは入りません」
「約束できるか」
「できます。危なくなったら止めてください」
止める手を、今度は頼る。
陛下は静かに頷いた。
私は夜明け竜胆の蕾に触れた。
流れ込んできたのは、夜明け前の冷たさ。
王妃の手。
幼い王子の寝息。
兵士たちの震え。
そして、竜の深い眠り。
その全部を一人に渡さないという、強い意志。
「咲かせたい」
私は呟いた。
「この花は、眠りを返すために咲こうとしています」
黒い糸が軋む。
リディア様の銀針が動き、カッサの灰色糸が花を支える。イオのペンが走る。
私は最後の結びをほどいた。
夜明け竜胆が、一輪だけ開いた。
青い光が森を走る。
水辺の方で、記憶睡蓮が静かに揺れた。
アシュレイ陛下の目に、涙のような光が浮かんでいた。
「母は、ここで負けたのではないな」
「はい」
私は開いた竜胆を見つめる。
「途中まで、直していました」
私たちはその続きを、今している。




