第61話 竜眠りの森
森へ入ると、音が遠くなった。
鳥の声も、風の音も、私たちの足音も、厚い布越しに聞いているようにぼやける。木々は高く、葉の裏が青い。幹には竜鱗に似た模様が浮かび、根元には花とも苔ともつかない淡い光が点っていた。
竜眠りの森。
名前は何度も聞いていた。
けれど実際に足を踏み入れると、ここは場所というより、眠っている誰かの内側のようだった。
「花に触らないでください」
リディア様が小声で言う。
「この森の植物は、誓約花と野花の境が曖昧です。何が反応するか分かりません」
私は頷いた。
触れたい衝動はある。
けれどフロレアで覚えた。
私の手だけで進む必要はない。
先頭はノア様。
次にカッサとトマ、記録箱を持つイオ、リディア様、私、そしてアシュレイ陛下。
ガレス団長はフロレアに残された。ベルク官吏と地方騎士団の一部が拘束を引き受けている。信じきれるわけではない。だが黒花の後始末も、街の人々が見ている。
森へ入ったのは、少人数だけだった。
トマの冠の空白が、道を示す。
生きた花を持たない彼だけが、森の薄い眠りに絡め取られず歩けるらしい。
「こっち」
トマは時々立ち止まり、耳を澄ませる。
「音がしない方」
「音がしない方?」
「うん。花がある道は、眠そうな音がする」
私には聞こえない。
でも彼は確かに、何かを聞き分けている。
アシュレイ陛下の顔色は悪かった。
森に入ってから、眠気が強くなっているのだろう。けれど彼は弱音を吐かない。だから私は、弱音の代わりになるものを探す。
「十歩ごとに止まりましょう」
私が言うと、ノア様がすぐ頷いた。
「賛成です」
陛下は不満そうにこちらを見る。
「私は歩ける」
「歩けるかではなく、眠りの流れを測るためです」
「本当か」
「半分は」
陛下は少しだけ眉を上げた。
私は正直になる練習をしている。
十歩ごとに止まる。
そのたび、白い契約花の蕾が淡く光る。
完全には開かない。
半分だけ開いたまま、森の眠りを受け流している。
昼前、最初の異変が起きた。
木の幹に、白い布が巻かれていた。
古い布だ。雨に濡れ、苔に覆われ、ところどころ破れている。けれど結び目は花冠院の封印糸に似ていた。
リディア様が顔をこわばらせる。
「王都式です」
「いつのものですか」
「少なくとも十年前。ですが、もっと古い技法も混ざっています」
布の下には、文字が刻まれていた。
眠りを王へ。
ノア様が低く罵った。
私は息を吸う。
森の封印は、竜を眠らせるためだけではない。
眠りを王へ流し続けるための道標でもあった。
「外せますか」
イオが聞く。
リディア様は首を振った。
「無理に外せば、流れが暴れます」
カッサが杖で布をつつく。
「外すんじゃなく、息をさせるんだよ」
保留糸。
私は道具箱を開けかけて、手を止めた。
「リディア様、お願いします」
リディア様は少し驚いた顔をしたあと、微笑んだ。
「ええ」
彼女とカッサが並んで布の上に灰色の糸をかける。
王都式と地方式。
二つの技術が、森の封印に小さな隙間を作る。
すると、木の根元に青い光が流れた。
夜明け竜胆の蕾が、道の奥にもう一つ見えた。
アシュレイ陛下がその光を見つめる。
「母も、これを見たのだろうか」
「きっと」
私は言った。
「王妃様は、一人でここを歩いたのかもしれません」
陛下は黙った。
森の奥から、竜の寝息のような音がする。
眠りは敵ではない。
でも、この森ではまだ鎖の形をしている。
私たちはその鎖を、一つずつ息ができる形へ変えながら進むことになった。




