第60話 弱まる封印
夜明けの最初の光が、森の縁に触れた。
その瞬間、土の下から青い花が一本だけ顔を出した。
夜明け竜胆。
まだ蕾だった。
けれど、王妃記録箱に刻まれていた花と同じ形をしている。
リディア様が息をのむ。
「本当に、ここに」
カッサは黙って杖を握り直した。
トマは自分の冠の空白に触れている。
無花者の古道。
夢を逃がす道。
その入口に、夜明け竜胆が咲こうとしている。
アシュレイ陛下は花の前に膝をついた。
触れない。
ただ見る。
「母は、ここまで来たのか」
私は王妃の押し花を思い出した。
彼女はここまで来て、何を見たのだろう。
何を持ち帰れず、何を封じられたのだろう。
森の奥から、低い音がした。
獣の声ではない。
風でもない。
眠っているものが、寝返りを打つような音。
夜明け竜胆の蕾が震えた。
同時に、フロレアの方角から黒い光が立ち上がる。
大花冠祭の黒花だ。
保留結界が弱まっている。
ノア様が振り返る。
「追手です」
古道の入口に、黒い外套の者たちが現れた。
その中央に、ガレス団長がいる。
鎧の胸には地方騎士団の紋章。
手には黒花の花弁を埋め込んだ剣。
「そこから先へ行かせるな」
彼の声は、疲れていた。
怒りよりも、恐怖が濃い。
アシュレイ陛下が立ち上がる。
「誰の命令だ」
ガレスは笑った。
「王都の命令です」
「王都の誰だ」
「王家も貴族院も花冠院も、知らぬふりをしてきた。誰か一人の名で済むと思うな」
その言葉は卑怯だった。
でも、完全な嘘でもない。
罪は一人の悪人だけでできていない。
黙った人、見ない人、利用した人、怖がった人。
たくさんの手が糸を結び、ほどけない形にしてきた。
「だから記録を消すのですか」
私が聞くと、ガレスは私を見た。
「記録が出れば、街は壊れる。王家は揺れる。森の封印も解ける」
「もう弱まっています」
リディア様が夜明け竜胆を見た。
「隠し続けたからです」
ガレスの顔が歪む。
黒花の剣が脈打った。
その瞬間、森の境界に張られていた見えない膜が揺れた。
空気が割れる。
私の耳に、たくさんの眠りの声が流れ込んだ。
返せ。
分けろ。
起こすな。
忘れるな。
膝が崩れそうになる。
アシュレイ陛下が私の前に立った。
眠りの圧は、彼にも向かっている。
それでも彼は退かない。
「ガレス。剣を下ろせ」
「下ろせば、私が守ってきた十年は何だった」
「誤りを守った十年だ」
冷たい言葉だった。
けれど必要な言葉だった。
ガレスが叫び、斬りかかる。
ノア様が受け止めた。
剣と剣がぶつかった瞬間、黒花の花弁が散り、森の封印へ吸い込まれる。
夜明け竜胆が開いた。
青い光が、古道を走る。
トマの冠の空白が光る。
カッサの保留糸が震える。
私の白い契約花の蕾が、半分だけ開く。
そしてアシュレイ陛下の背後に、竜の影が浮かんだ。
巨大で、眠たげで、ひどく傷ついた影。
森そのものが目を開けたようだった。
「封印が」
リディア様の声が震える。
「解けたのではありません。弱まっただけです。でも、もう王都から閉じ直すことはできない」
ガレスはノア様に剣を弾かれ、地面に膝をついた。
黒花の剣は砕け、花弁は土に落ちる。
アシュレイ陛下は森を見ていた。
眠りに引かれる顔。
母の言葉を取り戻した顔。
王として、罪の入口に立つ顔。
「進むぞ」
彼は言った。
「ここで戻れば、また誰かが封じる」
私は頷いた。
怖い。
喜びはまだ完全ではない。
代償も戻っていない。
でも、ここまで来た。
フロレアで見た花たちが、私の中に残っている。
税印花、奉公花、保留糸、空白の冠、大花冠、黒花。
全部が、森へ入るための答えだった。
竜眠りの森の封印は弱まった。
次に読むべき花は、森そのものだ。




