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第59話 王の記憶

 古道は、花のない道だった。


 街道沿いには帰願草が続いていたのに、この道には何も咲いていない。土は柔らかく、踏まれているのに跡が残りにくい。トマは迷わず先を歩いた。


「ここ、花を持ってる人は嫌がる」


 彼は小声で言った。


「どうして」


「胸が重くなるって。僕は平気」


 無花者は夢を逃がす。


 古文書の言葉が頭をよぎる。


 花を持たないことは欠落ではなく、この道を通るための形だった。


 夜明け前の森の縁で、黒花がまた震えた。


 遠く広場に封じた花と、私たちの持つ黒い花弁が呼び合っている。アシュレイ陛下の足取りが乱れた。


「少し休みましょう」


 私は言った。


「追手が」


「休まないと、追手より先に眠りに倒れます」


 陛下は反論しかけて、黙った。


 少しは自分の消耗を認める練習ができているらしい。


 私たちは古い石碑のそばに身を隠した。


 トマと母親はカッサが見ている。ノア様は周囲を警戒し、リディア様とイオは記録箱を確認した。


 私は陛下の前に座る。


「契約花を使います」


「君の負担は」


「直接読むのではありません。眠りの流れを確かめるだけです」


「それでも負担はある」


「あります」


 正直に言うと、陛下は少し驚いた顔をした。


「隠さないのか」


「隠すと怒られるので」


「怒る」


「はい」


 短いやり取りのあと、私は白い蕾に指を添えた。


 陛下は目を閉じる。


 眠らないためではなく、眠りの入口を見るために。


 蕾が淡く光る。


 次の瞬間、私は彼の記憶の縁に立っていた。


 白い廊下。

 小さな手。

 母の香り。


 幼いアシュレイが、王妃エリシアの膝に頭を預けている。


「眠っていいのよ」


 王妃の声がした。


「王子が眠ることは、国を捨てることではありません」


 幼い彼は首を振る。


「父上が、王は最後まで起きているものだって」


「それは、眠れない人の言い訳です」


 王妃は笑った。


 優しく、少し悲しく。


「人は眠るから、朝に人を信じ直せるの」


 場面が揺れる。


 次に見えたのは、暗い部屋だった。


 先代王の怒声。

 割れた花器。

 黒い竜鱗。


 王妃が幼いアシュレイを背に庇っている。


「この子に眠りを集めてはなりません」


「王家の血が受けるべき器だ」


「器ではありません。子です」


 その言葉が胸を刺した。


 幼いアシュレイは泣いていない。

 泣くことを許されていない顔をしていた。


 記憶がまた揺れる。


 王妃の手が、彼の額に触れる。


「あなたがいつか眠りを怖がるなら、思い出して。眠りは奪うものではなく、返すもの」


 そこで、黒い糸が記憶を裂いた。


 私は息をのむ。


 封印糸。


 王妃の言葉は、途中で封じられていた。


 アシュレイ陛下自身も、今まで思い出せなかったのだ。


 白い蕾が強く震える。


 記憶の奥から、黒花が伸びてくる。


 私は戻ろうとした。


 その時、幼いアシュレイがこちらを見た。


「母上は、どこ」


 答えられない。


 代わりに、今の陛下の声がした。


「ミラ、戻れ」


 強い声。


 私は白い蕾を握りしめ、記憶から引き戻された。


 現実の森の匂いが肺に入る。


 陛下が私の肩に触れかけて、止めていた。


「何を見た」


 私は震える息を整えた。


「王妃様の言葉です。眠りは奪うものではなく、返すものだと」


 陛下の顔が歪んだ。


 十年封じられていた母の言葉が、ようやく届いたのだ。


「私は」


「はい」


「母の声を忘れていた」


 私は首を振った。


「封じられていました。忘れたのではありません」


 その違いが、どれほど大切か知っている。


 忘れた罪と、奪われた痛みは違う。


 陛下は目を伏せた。


 眠りはまだ近い。


 でもその奥に、母の声が戻った。


 古道の先で、森がざわめく。


 夜明けが近づいている。


 竜眠りの森の封印は、私たちが思うより早く目覚め始めていた。


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