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第58話 黒花を追う者

 襲撃は、夜明け前に来た。


 狙いは黒花ではなく、戦争記録だった。


 宿の裏口から火が上がり、同時に聖堂の鐘が一度だけ鳴った。合図だ。黒い外套の者たちは二手に分かれ、一方は地下保管庫へ、もう一方は私たちの部屋へ向かった。


 ノア様の剣が廊下で鳴る。


 リディア様は記録箱を抱え、イオは写しを胸に入れて震えていた。


「窓から出ます」


 ノア様が短く言う。


「ミラ様、走れますか」


「走れます」


 嘘ではない。

 たぶん。


 アシュレイ陛下は戦争記録の原本を外套の内側に入れた。


「私は囮になる」


「却下します」


 ノア様の返事は早かった。


「王が囮になるな」


「今は王ではない」


「そういう時だけ身分を都合よく捨てないでください」


 緊迫した場面なのに、少しだけ笑いそうになった。


 喜びではない。

 でも人が生きている感じがした。


 私たちは二階の窓から隣家の屋根へ移った。


 フロレアの屋根は低く、花を干すための台がいくつもある。朝露で滑る瓦の上を、ノア様が先導する。下の路地では黒い外套が走っていた。


「あの者たちは騎士団ではありません」


 ノア様が言う。


「動きが違う。王都の私兵です」


「ヴァーン公爵?」


 私の問いに、陛下は答えなかった。


 答えなくても、可能性はそこにある。


 屋根の上で、突然眠気が襲った。


 私ではない。

 陛下だ。


 彼の足が止まる。


 遠く、保留結界の方角で黒花が光っている。襲撃者が花を刺激しているのだ。


 眠りを王へ戻すために。


「陛下!」


 私は振り返った。


 彼は膝をつきかけ、必死に目を開けている。


「来るな」


「来ます」


 私は契約花の蕾を取り出した。


 まだ完全には咲かない白い蕾。


 それを陛下と私の間に掲げる。


 直接触れない。

 けれど、眠りの流れを少しだけ受ける。


 冷たい水に足を入れたような感覚。


 記憶の底から、見知らぬ戦場の音がした。


 叫び。

 泥。

 眠れ、という命令。

 忘れろ、という祈り。


 私は歯を食いしばった。


「一人に戻さない」


 白い蕾が震える。


 屋根の下から矢が飛ぶ。


 ノア様が弾き、イオが悲鳴を飲み込む。


 リディア様は懐から小瓶を出した。中には保留糸を染める薬液。


「屋根の花台を使います!」


 彼女はカッサから学んだ結びで、干してあった花紐を一気に繋いだ。


 花台から花台へ、灰色の糸が走る。


 街の屋根に、小さな保留の網ができた。


 黒花から伸びる眠りの流れが、そこで少し散る。


 陛下が息を吸い、立ち上がった。


「行ける」


「本当に?」


「君ほど嘘は下手ではない」


「それは信用できません」


 こんな時なのに、彼の口元が少しだけ動いた。


 私たちは聖堂の裏庭へ降りた。


 そこにはカッサが待っていた。手には古い荷車。


「記録を乗せな。森の古道へ逃がす」


「森へ?」


「街中は塞がれる。追う者は街道を見張る。古道なら無花者の子でも知ってる」


 トマが荷車の影から顔を出した。


「僕、案内できる」


 母親が泣きそうな顔で彼の肩を掴んでいる。


 私は迷った。


 子どもを危険に巻き込むわけにはいかない。


 でも、彼の冠の空白が、森への道を知っている。


 アシュレイ陛下が膝を折った。


「トマ。怖いか」


「怖い」


「なら、怖いまま案内できるところまででいい。無理は命じない」


 トマは冠を握りしめ、頷いた。


 救うことと縛ること。

 その境目を、陛下は今選び直している。


 背後で火の手が上がる。


 黒花を追う者たちは、記録を消すためなら街ごと傷つける。


 私たちは戦争記録と黒花の写しを抱え、夜明け前の古道へ入った。


 森の匂いが濃くなる。


 竜眠りの森は、もう遠い目的地ではなかった。


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