第57話 地方に隠された戦争
黒花は、切らずに封じられた。
リディア様とカッサが共同で作った保留結界の中で、黒い花弁は半分だけ閉じている。完全に眠ったわけではない。時折、竜鱗の光が内側から走る。
広場の人々の記憶は、すべて戻ったわけではなかった。
老婦人は夫の名を思い出したが、初めて会った場所を忘れた。
リナは帳場の数字を思い出したが、母に習った菓子の配合を一つ忘れた。
トマは冠が自分のものだと分かったが、昨日遊んだ子の顔が曖昧になった。
奪われた記憶の小ささが、かえって痛かった。
生活は、小さな記憶でできている。
その夜、騎士団の地下保管庫が開かれた。
黒花の襲撃者の一人が、地方騎士団の紋章を持っていたからだ。ガレス団長は否定したが、ノア様が見つけた油布と矢羽根が一致した。
ベルク官吏は顔を土色にして立ち会った。
「私は、ここまでとは」
陛下は彼を見なかった。
地下保管庫には、森で見つかった遺品が並んでいた。
靴。
巡礼杖。
空の鉢。
布花の冠。
そして、古い軍用箱。
ノア様が箱の封を切る。
中には、戦争時代の命令書が入っていた。
先代王の印。
竜眠りの森周辺における実験的慰撫術。
兵士の恐怖記憶除去。
無花者を夢抜け道として使用。
文字が、目に刺さる。
慰撫。
除去。
使用。
人の心を扱う言葉が、あまりに冷たい。
アシュレイ陛下は命令書を手に取った。
紙が震えた。
彼の手が震えているのだと気づくまで、少しかかった。
「父は」
声がかすれる。
「眠りを兵器にした」
誰も否定できなかった。
リディア様が別の書類を開く。
「王妃エリシア様の異議申立書があります」
陛下が顔を上げる。
そこには、王妃の署名があった。
共眠誓約は王家の所有物ではない。
民の夢路を塞ぐことは、王冠の義務に反する。
無花者を道具として扱えば、誓約は王を呪う。
私は息をのんだ。
王妃様はすべて見抜いていた。
その次の紙は、処分命令だった。
王妃の発言を病による混乱として扱うこと。
関連記録を王都旧記録庫へ移すこと。
地方の写しを騎士団保管とし、公開を禁ずること。
陛下の顔から血の気が引く。
「母は、病ではなかった」
「はい」
私は言った。
「王妃様は、止めようとしていました」
その言葉が救いになるのか、痛みになるのか分からない。
陛下は命令書を机に置いた。
そして、深く頭を下げた。
誰に向けてかは分からない。
母に。
民に。
無花者に。
戦争で眠りを奪われた人々に。
「王として、この記録を隠さない」
ノア様が静かに言う。
「公開すれば、王家への反発は避けられません」
「避けない」
「貴族院は陛下を責めます」
「責められるべきことだ」
その声は震えていた。
けれど逃げていなかった。
私は手を伸ばしかけて、止めた。
触れられない。
触れれば、彼の痛みを奪いたくなる。
でも、奪ってはいけない痛みがある。
「陛下」
「何だ」
「私は、その痛みを消しません」
彼が私を見る。
「でも、記録を一緒に持ちます」
陛下の目が揺れた。
しばらくして、彼は小さく頷いた。
地下保管庫の奥で、空の鉢が並んでいる。
花を持たない人々が、夢を逃がす道として使われ、そして記録から消された。
フロレアの差別は、無知だけでできていたのではない。
隠した罪の上に作られていた。
黒花はその罪から咲いたのだ。
私は王妃の異議申立書を写しながら、指先の冷えを感じていた。
これは、森へ入る前に知らなければならなかった歴史だった。




