第56話 黒花
黒花が開いた瞬間、広場の人々が次々に膝をついた。
眠りではない。
記憶を引かれている。
老婦人が夫の名を呼ぼうとして口を押さえた。リナが宿の帳場の場所を見失い、トマが自分の冠を見て「これ、誰の」と呟いた。
私は血の気が引いた。
黒花は巨大な花冠の中心で、音もなく花弁を広げている。竜鱗に似た光沢が一枚増えるたび、誰かの記憶が薄くなる。
「全員、花から離れろ!」
ノア様が叫ぶ。
だが祭の冠は広場の中央に吊られている。人々は混乱し、逃げ道に詰まった。
アシュレイ陛下は膝をついたまま、歯を食いしばっている。
眠りが彼へ戻ろうとしている。
黒花は人々から記憶を奪い、その重さを王へ流しているのだ。
「ミラ、触るな」
陛下が言った。
こんな時まで私を止める。
でも今回は、私も無茶をするつもりはなかった。
少なくとも、一人では。
「リディア様、保留糸を」
「あります」
「カッサさん、祭の冠の結びを緩められますか」
「緩めるだけならね。切ったら街中の花が傷むよ」
「切りません」
私はイオを見る。
「記録を。黒花の花弁が開く順番」
「はい!」
手を使わずに考えた昨日の時間が、今になって役立つ。
黒花を直接読むのではなく、周囲の花の反応から動きを見る。
花ある者は夢を結び、花なき者は夢を逃がす。
「トマさん!」
私は叫んだ。
トマはぼんやりしていたが、母親に支えられてこちらを見た。
「冠の空白を、黒花へ向けてください!」
彼は意味が分からない顔をした。
それでも、両手で自分の花冠を持ち上げた。
青い布花と白い乾花。
その間の空白。
黒花の光が、一瞬だけ揺らいだ。
「無花者の冠を持っている人は、輪の外へ! 空白を花へ向けて!」
カッサが怒鳴る。
「ぼさっとするんじゃないよ! 花がないことを恥じる暇があったら、今だけ胸を張りな!」
無花者たちが戸惑いながら動き出す。
彼らの冠、布花、空の鉢。
誓約花を持たない印が、黒花の周囲に道を作る。
眠りが少し流れた。
陛下が息を吸う。
「効いている」
リディア様が保留糸を大花冠の支柱へかける。カッサが祭の結びを緩める。イオが泣きそうな顔で花弁の動きを記録する。
私は白い契約花の蕾を手にした。
触れる。
直接黒花ではない。
私と陛下の間の、まだ咲かない蕾。
流れ込んできたのは、眠りの縁だった。
深い水のような眠り。
誰かの名を忘れる怖さ。
誰かに忘れられる怖さ。
その底に、声がある。
返せ。
誰の声か分からない。
竜か。
王妃か。
戦争で眠りを奪われた人々か。
私は蕾を握りしめた。
「返します。でも一人には返しません」
白い蕾が、細く開いた。
完全な花ではない。
けれど花弁の隙間から、淡い光が広がる。
広場の歌が、誰かの震える声で戻った。
眠りをひとりに渡すな。
夢を道へ返せ。
一人、また一人と歌い始める。
黒花の花弁が軋んだ。
その時、矢が飛んだ。
狙いは大花冠ではない。
トマだった。
ノア様が走り、剣で矢を弾く。
広場の屋根の上に、黒い外套の影が見えた。
「襲撃です!」
イオが叫ぶ。
黒花を止められたくない者がいる。
アシュレイ陛下が立ち上がった。
眠気で顔色は悪い。
それでも、その目は完全に王のものだった。
「民を避難させろ。黒花は切るな。証拠として残す」
ノア様が頷き、騎士の声で指示を飛ばす。
広場は混乱の中で動き始めた。
私は白い蕾を胸に抱く。
喜びはまだ薄い。
恐怖は強い。
でも、今はそれでいい。
怖いまま、花を守る。
黒花の奥で、竜の眠りが唸っていた。




