第53話 止める手
休むと決めた日に限って、事件は来る。
昼過ぎ、巡礼聖堂から使いが走ってきた。
地下書庫の古文書が一冊、黒く変色したという。
共眠誓約の名が書かれていた冊子ではない。けれど同じ箱に入っていた巡礼写本で、夜明け竜胆の道筋が記されている可能性がある。
リディア様はすぐに立ち上がった。
「私が行きます」
「私も」
反射で言った。
部屋の全員がこちらを見る。
アシュレイ陛下は何も言わず、私の前に立った。
「行かせない」
「見るだけです」
「君の見るだけは、触るところまで含む」
「触らなければ分からないことがあります」
「分からなくていい」
その言葉は、私の胸を強く叩いた。
「よくありません」
喜びはない。
でも怒りはあった。
自分でも驚くほど、はっきりと。
「分からなくていいものとして放っておかれたから、フロレアの花はこんなに傷ついたんです。無花者も、リナさんも、税印花も」
「君一人が分かる必要はない」
「でも私は分かれるんです」
言ってしまってから、リディア様が目を伏せた。
分かれる。
読める。
直せる。
その力があることを、私は時々、言い訳にしている。
陛下は低く言った。
「力がある者が、いつも前へ出なければならないなら、王と同じだ」
今度は私が黙った。
王と同じ。
陛下が一番嫌う、自分の背負い方。
「私は、君を王のように孤独にしたくない」
その声に、怒りが少し揺れた。
でも、譲れないものもある。
「では、どうすればいいのですか」
私は聞いた。
「読まなければ分からない。読めば削れる。休めば誰かが傷つく。陛下は止めるだけですか」
部屋が痛いほど静かになった。
言い過ぎた。
すぐ分かった。
でも言葉は戻らない。
陛下は目を伏せた。
「そう聞こえたなら、私の言い方が悪い」
「陛下」
「止めたい。だが、君の仕事を奪いたいわけではない」
彼は机の上に黒花の布包みを置いた。
「だから条件を作る。今日は君は触れない。リディアが見る。イオが記録する。私は古文書の運搬と警護をする。君は部屋で、これまでの記録から仮説を作る」
「仮説」
「君の手だけに頼らない方法を探す」
私は息をのんだ。
止める手。
奪う手。
支える手。
その違いを、私たちはまだうまく知らない。
私は膝の上の手を見た。
触れなければ、確かに分からないことがある。
でも、触れる前に考えられることもある。
「分かりました」
悔しさは残った。
でも頷いた。
リディア様がほっと息を吐く。
イオは急いで紙束を用意した。
聖堂へ向かう前、陛下が扉のところで振り返る。
「ミラ」
「はい」
「君が怒ったことも、私は覚えておく」
「それは忘れてください」
「嫌だ」
少しだけ、胸の奥が動いた。
喜びではない。
でも、動いた。
彼らが出ていった後、私は机に向かった。
フロレアの記録。
無花者。
森へ入れる者。
黒花。
共眠誓約。
王妃エリシアの押し花。
手を使わずに、糸を追う。
読み取りではなく、考える。
私が書き出した最初の仮説は、こうだった。
共眠誓約は、花を持つ者だけでなく、花を持たない者も含めて眠りを分ける仕組みだったのではないか。
もしそうなら、無花者を排除してきたこの十年は、誓約をさらに壊し続けていたことになる。
ペン先が震えた。
聖堂の鐘が鳴る。
私は触れないまま、初めて花の悲鳴に近づいていた。




