第52話 喜びのない朝
翌朝、喜びが来なかった。
窓を開けると、フロレアの広場には朝市が立っていた。焼き菓子の匂い、花茶の湯気、巡礼者の笑い声。宿の女将がリナと並んで店先を掃き、トマが新しい冠をかぶって通りを走っている。
いい朝だ。
そう分かる。
でも、胸が動かない。
昨日までなら少し遅れて届いた温かさが、今朝はどこにも見当たらなかった。
私は窓辺に立ったまま、自分の手を見た。
指は動く。
目も見える。
花の匂いも分かる。
けれど、嬉しいという感情だけが、棚から抜かれた道具のようにない。
「ミラ?」
イオが扉を開けた。
「朝食、下で」
彼女は私の顔を見て、言葉を止めた。
「どうしました」
「何でもありません」
言った瞬間、嘘だと分かった。
イオも分かったのだろう。すぐにリディア様を呼びに行った。
リディア様は私を椅子に座らせ、いくつか質問した。
「悲しいですか」
「いいえ」
「怖いですか」
「少し」
「嬉しいことを思い浮かべてください」
私は考えた。
第三修復室で保留箱が増えたこと。
王が私を道具ではなく協力者と呼んだこと。
トマが冠の空白を触って頷いたこと。
陛下が、私の喜びを覚えていると言ったこと。
どれも大切だと分かる。
でも、分かるだけだった。
リディア様の顔が曇る。
「一時的な感情鈍麻です。読み取りの負荷が重なったのでしょう」
「戻りますか」
「戻る可能性は高いです。ただし、今日は修復禁止です」
「でも、黒花が」
「禁止です」
いつになく強い声だった。
その時、扉の外で足音が止まった。
アシュレイ陛下だ。
彼は入ってきて、リディア様の説明を最後まで聞いた。
その間、何も言わなかった。
言わないことが、怖かった。
「ミラ」
「はい」
「今日は花に触るな」
「分かっています」
「分かっている顔ではない」
私は膝の上で手を握った。
「喜びがないだけです。判断はできます」
「それが危ない」
陛下の声が低くなる。
「喜びがない時、人は自分の消耗を軽く見る」
「陛下は眠りがない時、ご自分の消耗を軽く見ています」
言い返してしまった。
部屋が静まる。
リディア様とイオが目を合わせた。
陛下は傷ついたような顔をした。
けれど、怒りはしなかった。
「そうだ」
短く認めた。
その素直さに、胸が動くはずだった。
でも動かない。
動かないことが、つらい。
「だから君に同じことをさせたくない」
「私は、役に立ちたいだけです」
「君が役に立つかどうかで、私は君のそばにいるわけではない」
言葉が、胸に届く。
意味は分かる。
優しさも分かる。
でも喜びは来ない。
私はそれが悔しくて、初めて泣きそうになった。
「今、嬉しいと思えません」
声が震えた。
「陛下がそう言ってくださったのに、嬉しいと思えないんです」
陛下は一歩近づき、けれど触れずに止まった。
「なら、私が覚えている」
昨夜と同じ言葉。
でも今日は、それを聞いても温かくならない。
代わりに、少しだけ安心した。
感情が戻らない間、誰かがその形を覚えていてくれる。
それは、花を保留箱に入れることに似ていた。
捨てない。
今すぐ咲けと命じない。
戻るまで、置いておく。
リディア様が柔らかく言った。
「今日のあなたの仕事は、休むことです。これも修復の一部です」
私は頷いた。
窓の外で、トマが転んで、それでも笑って立ち上がった。
いい光景だ。
嬉しいと感じられない。
でも、いい光景だと分かる私は、まだここにいる。
その日、私は初めて何もしないことを選んだ。
選んだというより、選ばされたのかもしれない。
それでも、花に触れない手を膝の上に置き、戻ってくるはずの喜びを待った。




