第51話 共眠誓約の名
竜信仰の古文書は、巡礼聖堂の地下にあった。
フロレアの聖堂は、王都の神殿ほど豪華ではない。白い壁には巡礼者の手形が薄く残り、床石は何代もの靴で丸く削れている。祈りの場所というより、たくさんの人が迷いながら通った場所に見えた。
地下書庫の鍵を持ってきた神官は、ずっと落ち着かなかった。
「王宮の調査班にお見せするのは構いませんが、古い竜信仰の記録は誤解を招きます」
リディア様が尋ねる。
「どんな誤解ですか」
「眠りを祝福とする時代があった、という記録です」
アシュレイ陛下の指が、机の端を軽く叩いた。
眠りを祝福。
今の王宮では、決して言えない言葉だ。
地下書庫には、木箱が十二並んでいた。虫除けの薬草と古い紙の匂いがする。神官はそのうち一つを開け、布に包まれた冊子を出した。
表紙には、夜明け竜胆の絵。
私は息を止めた。
「森へ行く巡礼者が写した祈祷文です。原本は失われています」
リディア様が慎重にページをめくる。
古い文字は読みにくい。けれどいくつかの言葉は分かった。
竜は眠り、王は見張る。
王が眠り、民は分ける。
ひとりの夢を、ひとりに負わせない。
そして、ページの中央に書かれた言葉。
共眠誓約。
部屋の空気が変わった。
アシュレイ陛下は身を乗り出す。
「読めるか」
リディア様はゆっくり頷いた。
「完全ではありません。ただ、共眠誓約は呪いではなく、眠りを分担する制度だったようです」
制度。
竜の呪いだと思っていたものが、かつては支え合う仕組みだった。
「では、なぜ記憶を奪う形に」
イオが震える声で聞いた。
神官は目を伏せた。
「先代王時代の戦争で、竜の眠りを兵へ向けたという噂があります。眠らせ、恐怖の記憶を奪い、戦えるようにするために」
ノア様の拳が固まる。
戦争。
先代王。
竜の眠り。
王妃様が止めようとしたものが、少しずつ形を持ちはじめる。
私はページの余白に押された花跡を見た。
夜明け竜胆ではない。
白い小さな花。
「これは」
触れると、かすかな感情が流れ込んだ。
祈り。
恐れ。
誰かを起こしたくないという願い。
そして、名前。
エリシア。
「王妃様の名です」
私が言うと、アシュレイ陛下の顔がわずかに動いた。
母の名。
彼はそれを、王宮の記録より先に花から聞いた。
神官が驚く。
「その押し花は、百年近く前のものです」
「いいえ」
私は首を振った。
「もっと新しい。王妃様がここへ来ています」
リディア様が別のページを確認する。
「確かに、十年前の日付に近い巡礼記録があります。名前は伏せられていますが、王都から身分を隠した女性が来訪。夜明け竜胆の道を尋ねた、と」
陛下は長く息を吐いた。
「母は、森へ行こうとしたのか」
「おそらく」
私は押し花から手を離した。
指先に冷えが残る。
王妃様は知っていた。
共眠誓約が、壊されていることを。
そして直そうとした。
「道は分かりますか」
私が聞くと、神官は迷った。
「古い巡礼道は閉じられています。今は騎士団の許可がなければ」
「騎士団長が記録を消している」
ノア様が言う。
神官の顔色が変わった。
つまり、彼も何かを知っている。
アシュレイ陛下は古文書を見つめた。
「共眠誓約は、壊された約束だ」
声は低い。
「なら、直す方法もどこかにある」
私は頷いた。
けれど胸の奥が重い。
壊された約束を直すには、壊した歴史も読まなければならない。
それはきっと、私の代償だけでは済まない。
地下書庫の小さな明かりの下で、夜明け竜胆の絵だけが青く浮かんでいた。




