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第50話 王都の蕾

 王都では、セレスティアが笑っていた。


 その笑みは、鏡の前で何度も整えたものだ。


 ヴァーン公爵家の応接室には、貴族院の使者が三人座っている。父は上座で満足そうに茶を飲み、母は沈黙したまま刺繍枠を持っていた。


 セレスティアの胸元には、咲かない蕾。


 薄い緑の筋は、以前より少し濃くなっている。


「陛下が王都を離れた今こそ、王妃選定再開の議を進めるべきです」


 使者の一人が言った。


 父は頷く。


「もちろんだ。王は若い修復師に入れ込み、国政を軽んじている。貴族院が支えねばならぬ」


 セレスティアは茶器を持ち上げた。


 指先は震えない。


 震えないよう、何年も訓練してきた。


「陛下は花材採取視察と伺っております」


「名目だ」


 父が鼻で笑う。


「あの娘が何を吹き込んだか知らんが、竜眠りの森に近づくつもりだろう。王家の古傷を掘り返されては困る者も多い」


 困る者。


 父の言葉は、いつも主語をぼかす。


 セレスティアは微笑んだ。


「困るのは、王家でしょうか。それとも貴族院でしょうか」


 応接室の空気が止まる。


 父の目が細くなった。


「余計な問いだ」


「失礼いたしました」


 頭を下げる。


 胸元の蕾が、ちくりと痛んだ。


 咲かない花。

 従順な娘の証として父が利用してきた花。


 けれど今は、咲かないことが抵抗なのだと知っている。


 ミラがそう読んだ。


 修復師の少女は、セレスティアを慰めなかった。哀れまなかった。ただ、花を見て、そこに残る意志を否定しなかった。


 それが腹立たしく、少し救いでもあった。


 使者たちは書類を広げる。


「仮婚約者不在中の王妃候補面談」


「戴冠十周年儀式での候補者列席」


「花冠院長による適性再判定」


 どれも、父の望む方向へ整えられている。


 セレスティアは一枚ずつ目を通した。


 そして、署名欄の前で手を止めた。


「わたくしの同意が必要なのですね」


「形式上は」


 使者が言う。


「形式でも、同意は同意です」


 父の茶器が音を立てた。


「セレスティア」


「はい、お父様」


「署名しなさい」


 命令は短い。


 昔なら、それだけで手が動いた。


 けれど今、彼女の胸元には旅守りの紐がない。ミラへ渡したからだ。代わりに空いた場所が、妙に軽い。


 返して。

 できれば、無事に。


 自分で言った言葉を思い出す。


 無事に返ってきてほしいのは紐だけではない。


 王も、修復師も、この国の花も。


 セレスティアは筆を取った。


 父の口元が緩む。


 だが彼女は署名欄ではなく、書類の余白に一文を書いた。


 候補者本人の自由意思確認を求める。


 使者が目をむく。


「これは」


「署名の前提条件です。王妃候補全員に、家門の代理ではなく本人の意思を確認してください」


 父が立ち上がった。


「ふざけるな」


 母の刺繍針が止まる。


 セレスティアは笑みを保った。


「王妃とは、王の隣に立つ者です。家門の押印だけで足りるなら、花冠ではなく紋章旗を置けばよろしいのでは」


 使者の一人が咳き込んだ。


 父の顔が赤くなる。


「誰の入れ知恵だ。あの下級修復師か」


「いいえ」


 セレスティアは初めて、父をまっすぐ見た。


「わたくしの蕾です」


 胸元の蕾が、微かに震えた。


 咲きはしない。

 でも閉じたまま、確かにそこにある。


 父が手を上げかけた時、扉が叩かれた。


 入ってきたのは、花冠院の若手修復師パウルだった。緊張で顔をこわばらせ、王宮からの連絡文を持っている。


「王宮書庫より、王妃候補花冠の再判定延期通達です」


 父が文書を奪い取る。


 パウルは震えながらも続けた。


「また、候補者本人への聞き取りを省略した判定は、王命特任修復班の確認対象となります」


 セレスティアは目を伏せた。


 王都に残った若い修復師たちは、動いている。


 ミラだけではない。

 保留箱を持つ人が増えている。


 父は文書を握り潰しそうになった。


「王が不在の間に、好き勝手を」


「不在だからこそ、記録が必要なのでしょう」


 セレスティアは静かに言った。


 胸元の蕾がまた痛む。


 痛みは怖い。


 でも、痛みがあるうちは、自分の意思がまだそこにあると分かる。


 王都の空は曇っていた。


 遠く、竜眠りの森へ向かった馬車の行方は見えない。


 それでもセレスティアは、初めて父の命令に署名しなかった。


 咲かない蕾は、閉じたまま戦い始めていた。


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