第48話 眠れない看病
その夜、私は熱を出した。
最初は寒気だと思った。
フロレアの夜は王都より湿り、窓の隙間から花の匂いを含んだ風が入ってくる。布団を一枚増やせば済むはずだった。
けれど、手の震えが止まらない。
道具箱を閉めようとして、銀針を床に落とした。
拾おうとした瞬間、視界が傾く。
「ミラ」
倒れる前に、腕を掴まれた。
アシュレイ陛下だった。
いつから部屋の前にいたのか。
そう聞こうとして、声が出なかった。
陛下は私を椅子に座らせ、額に手を当てた。その手がひどく冷たくて、逆に自分の熱が分かる。
「リディアを呼ぶ」
「大丈夫です」
「その言葉は禁止にしたい」
少し怒った声だった。
私はぼんやり笑おうとして、うまくできなかった。
リディア様が来て、脈を取り、目の焦点を確認した。イオが薬湯を持ってくる。ノア様は扉の外で宿の廊下を見張った。
「能力の使いすぎです」
リディア様の声は厳しい。
「フロレアの花は、生活に近い分だけ感情が濃い。王都の儀式花より負担が大きいのです」
「でも、直さないと」
「直す人が壊れたら終わりです」
返す言葉がなかった。
寝台に横になると、天井の木目が波のように揺れた。
部屋に残ったのは、アシュレイ陛下だけだった。
「看病は」
「する」
「陛下が?」
「今はアシュだ」
そういう問題ではない。
けれど、抗議する力がない。
陛下は椅子を寝台の横に置き、薬湯の杯を持った。
「飲めるか」
「苦いですか」
「たぶん」
「甘さが分からないので、苦い方が助かります」
言ってから、部屋が静かになった。
陛下の手が止まる。
しまった、と思った。
でも熱で頭が鈍く、言葉を戻せない。
「いつからだ」
「少し前からです。完全にではありません。甘いものが遠いだけで」
「他には」
「喜びが、遅れます」
言ってしまうと、隠していたものが部屋の中に形を持った。
陛下は長い間、黙っていた。
怒るかと思った。
止めると言うかと思った。
けれど、返ってきた声は低く、痛そうだった。
「君は私に、眠りを敵にするなと言った」
「はい」
「なら君も、自分の代償を当然にするな」
胸が詰まる。
私は薬湯を受け取り、少し飲んだ。
本当に苦い。
苦いと分かることに、なぜか安心した。
「私は、役に立てるなら」
「役に立つことと、使い尽くされることは違う」
セレスティア様の言葉にも似ていた。
眠りを敵にしすぎないこと。
代償を当然にしすぎないこと。
どちらも、怖いものを怖いまま抱えるための言葉だ。
「陛下は、眠くありませんか」
「眠い」
あまりに素直で、私は驚いた。
陛下は窓の外を見ている。
「この街へ来てから、眠気が強い。森が近いせいかもしれない」
「では、離れて」
「君が倒れている時に離れると思うか」
言葉が詰まる。
熱のせいで、普段より心が柔らかくなっているらしい。
「私のそばにいると、眠るかもしれません」
「だから起きている」
「陛下はいつもそうです」
「君もだ」
お互い様だと言われて、反論できなかった。
夜が深くなる。
宿の下階では、巡礼者たちの声が少しずつ消えていった。遠くで鐘が鳴り、花の匂いが薄くなる。
陛下は眠らない。
私も眠れない。
でも、目を閉じることはできた。
「アシュレイ様」
熱に浮かされていたのかもしれない。
私は王の名を、敬称だけで呼んだ。
陛下が息を止めた気配がした。
「何だ」
「もし私が、喜びを忘れたら」
「忘れさせない」
「どうやって」
「私が覚えている」
その答えは、危うい。
記憶を奪う呪いを持つ人が、私の喜びを覚えると言う。
でも、その危うさごと胸に残った。
「では、私も覚えています」
「何を」
「陛下が眠りを怖がっても、それだけではないこと」
陛下の手が、布団の端を握った。
触れられない距離。
触れたい距離。
その間に、白い契約花の蕾が置かれている。
蕾はまだ咲かない。
けれどその夜、私は少しだけ眠った。
誰の記憶も奪わない、浅く短い眠りだった。
目を覚ました時、陛下はまだ椅子にいた。
眠らないまま、朝を待っていた。
その顔を見て、遅れていた喜びが、今度はちゃんと届いた。




