第45話 王ではない声
フロレアの役所は、巡礼広場の北側にあった。
白い石造りの立派な建物で、入口には大きな花板が掲げられている。そこに書かれた規則の一つが、カッサの怒りの理由だった。
無花者の市内滞在は三日まで。
保証花を持たぬ者の宿泊は追加税。
誓約花不所持の雇用契約は無効。
文字だけなら、整っている。
でもその下に吊るされた黒ずんだ花束が、言葉を脅しに変えていた。
「あれは警告花です」
リディア様が眉をひそめる。
「本来は危険地域を知らせるためのものです。人に向けて吊るすものではありません」
広場には多くの人がいた。
巡礼者、商人、子ども、役人。
そして花を持たない人々が、広場の端に集められていた。
服が汚れているわけではない。怠けているようにも見えない。ただ、胸や髪や荷物に誓約花がないだけだ。
それだけで、人の流れから外されている。
アシュレイ陛下の横顔は静かだった。
静かすぎて、ノア様が警戒している。
「アシュ様。ここで正体を明かすのは」
「明かさない」
「本当ですね」
「今は」
ノア様が深いため息を飲み込んだ。
役所の前で、地方官吏が私たちを迎えた。丸い顔に油断のない笑みを貼りつけた男で、名をベルクと言った。
「王宮の皆様、遠路ようこそ。地方誓約花の視察と伺っております」
アシュレイ陛下はうなずくだけで、話はリディア様に任せた。
私は警告花の前に立つ。
黒ずんだ花束は乾いているのに、妙な湿り気を帯びていた。
触れる前から、嫌な圧がある。
「この掲示は、いつから」
リディア様が尋ねる。
ベルクは滑らかに答えた。
「十年前からです。竜眠りの森の周辺で身元不明者が増えましてな。誓約花を持たぬ者は追跡が難しい。保護のためです」
保護。
便利な言葉だ。
私は警告花に触れた。
流れ込んできたのは、恐怖。
森から戻らなかった人々への恐怖。
身元の分からない遺品。
泣く家族。
そして、その恐怖を利用する冷たい手。
最初は、確かに保護だった。
けれど途中で変えられている。身元確認のための花が、排除のための花に編み直された。
「この花束は改変されています」
私が言うと、ベルクの笑みが少し固まった。
「改変とは」
「元は森へ入る人の安全確認用です。でも後から、無花者を市外へ押し出す誓約文が足されています」
「誓約花を持たぬ者は危険です」
「誰にとってですか」
その問いを発したのは、アシュレイ陛下だった。
ベルクは彼を見た。
旅装の男。
王ではないはずの男。
けれど、言葉の重さに思わず姿勢を正す。
「街にとってです。税を納めず、身元も示せず、契約も結べない者を自由に入れれば秩序が」
「秩序とは、弱い者を外に出すことか」
広場のざわめきが遠のく。
ベルクの額に汗が浮いた。
「あなたは」
「花材採取班の同行者だ」
ノア様が素早く挟む。
陛下はそれ以上、身分を匂わせなかった。
けれど声は王のものだった。
「税を納める力がない者から、さらに税を取る。契約できない者を、契約できないことを理由に雇わない。結果、その者はますます花を持てない。これは保護ではない」
ベルクは反論しようとして、言葉を失った。
広場の端にいた無花者たちが、こちらを見ている。
私は保留糸を取り出した。
カッサから借りた灰色の糸。
「この警告花を、すぐ外すと混乱します」
カッサが後ろで不満そうに鼻を鳴らした。
私は続ける。
「でも、このまま吊るすと人を傷つけ続けます。三日だけ、効力を保留してください。その間に、身元確認と排除を分けた新しい掲示に変える」
リディア様が頷く。
「保留糸なら可能です。王都式ではありませんが、花を殺さず効力を休ませられる」
「非公式技術ですぞ」
ベルクが言った。
アシュレイ陛下が返す。
「公式が人を傷つけているなら、非公式から学ぶべきだ」
その言葉に、カッサが初めて満足そうな顔をした。
私は警告花に保留糸をかける。
黒ずんだ花束が震えた。
指先に恐怖が流れ込む。
森で消えた人。
名前のない荷物。
探されなかった無花者。
胸が重くなった。
でも、花束は少しずつ黒を薄める。
警告は消えない。
危険を知らせる役割は残る。
けれど、人を追い払う棘だけが眠った。
広場の端で、小さな子どもが母親の袖を掴んだ。
「入っていいの?」
誰もすぐには答えられなかった。
アシュレイ陛下が一歩前に出る。
「少なくとも、花がないという理由だけで追い出されることはない」
王としてではなく。
名を隠した一人の男として。
その声は、広場の石畳に静かに広がった。
私は思った。
陛下が王冠をかぶらずに言った言葉の方が、時に人の近くへ届くことがあるのかもしれない。




