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第43話 巡礼宿の娘

 翌朝、食堂の水差しが割れた。


 大きな音ではなかった。

 けれど、宿の空気が一瞬で固まった。


 水差しを落としたのは、女将の娘だった。十六、七歳くらいだろうか。栗色の髪を後ろで結び、胸元に小さな青い花を下げている。


 花は、茎だけが妙に硬かった。


「リナ」


 女将が駆け寄るより早く、奥の席から男が立ち上がった。


 革の上着。太い指。商人というより、荷主のような男だ。


「契約の皿を割ったな」


 娘、リナは青ざめた。


「すみません。手が」


「手が震えたくらいで品を損なう者に、店の帳場は任せられない」


 周囲の客が視線を逸らす。


 私は割れた水差しより、リナの胸元の花を見ていた。


 青い商業誓約花。

 花弁は薄いのに、茎だけが鉄線のように固まっている。


 リディア様も気づいたらしく、低く言った。


「あれは商業奉公花ですね」


「奉公?」


「店や商家に一定期間仕える誓約です。正しく使えば賃金と保護の証になります」


 正しく使えば。


 その言葉が、すでに嫌な形をしている。


 男はリナの手首を掴んだ。


「今夜、倉庫に来い。契約花を締め直す」


「待ってください」


 私の声は、自分で思ったより大きく出た。


 男が振り返る。


「旅の修復師が何の用だ」


「その花は締め直す状態ではありません」


「うちの契約だ」


「契約花は、相手の体を縛るためのものではありません」


 食堂が静まり返った。


 ノア様が席を立つ。陛下はまだ座っている。けれど視線だけで、部屋の出口を押さえていた。


 男は笑った。


「王都の修復師は綺麗事がお好きだな。娘はうちから仕入れの信用を借りた。返せないなら働く。花も咲いた。何が問題だ」


 リナの唇が震える。


 女将は言葉を飲み込んでいる。税印花の罰を恐れているのだ。


 私はリナに近づいた。


「見せてください」


 リナは男を見る。


 その目に、許可を求める癖が染みついていた。


 胸の奥が、冷たくなる。


 アシュレイ陛下が言った。


「本人に聞いている」


 リナははっとして、私を見た。


 そして小さく頷いた。


 私は青い花に触れた。


 商業奉公花の最後の感情が流れ込む。


 期待。

 家を助けたいという焦り。

 母に楽をさせたいという願い。


 その上から、黒い紐のようなものが巻きついている。


 利息。

 罰金。

 遅延料。

 保証料。


 言葉の形をした重りが、少女の願いを押し潰していた。


「これは契約ではありません」


 私は手を離した。


「最初の誓約花は、宿の仕入れ代を三か月働いて返す内容です。でも途中で後から条件が足されています。花は受け入れていない。だから茎だけが硬化しています」


 男の顔が変わった。


「証拠はあるのか」


 リディア様が静かに前へ出る。


「商業奉公花の硬化は、追加条件への抵抗反応です。王都の花冠院記録にもあります」


「王都の記録など」


「ここに王宮採取班の修復師が二名います。必要なら、地方官庁へ同行します」


 男は舌打ちした。


 だが退かない。


「花が抵抗していようが、娘が受けた金は金だ」


 リナが震えた。


 私はもう一度、花を見た。


 青い花弁の奥に、細い白い筋がある。リナ自身の意志だ。完全には折れていない。


「リナさん」


「はい」


「あなたは、働いて返したいですか。それとも、この条件を拒みたいですか」


 男が怒鳴りかける。


 その前に、アシュレイ陛下が立った。


「黙れ」


 一言だけだった。


 身分を隠した旅人のはずなのに、部屋の全員が息を止めた。


 リナは涙をこぼしながら言った。


「働きたいです。でも、夜に倉庫へ呼ばれるのは嫌です。母の店を取られるのも嫌です。私が返すと言ったのは、仕入れの分だけです」


 青い花が震えた。


 私は修復針を持つ。


 追加された黒い紐だけを外す。最初の願いを切らないように。家を助けたいというリナの誓いまで壊さないように。


 指先に、少し苦味が走った。


 私が最近失いやすいのは、甘さだけではない。喜びの輪郭も、時々ぼやける。


 でも今は、手を止めない。


 黒い紐が一本、花から抜けた。


 男が後ずさる。


 商業奉公花は、小さく開いた。


「契約は三か月の労働に戻りました」


 リディア様が確認する。


「賃金から一定額を返済。夜間呼び出し、追加保証、宿の差し押さえは花が拒否しています」


 女将がその場に崩れ落ちる。


 リナは自分の花を両手で包み、声を殺して泣いた。


 アシュレイ陛下は男を見た。


「この街では、花を読める者が少ないのか」


「それがどうした」


「読めないことを利用する者は、多いらしい」


 男は顔を歪めたが、ノア様が一歩踏み出すと逃げるように食堂を出ていった。


 私は息を吐いた。


 直した。

 けれど、直せたのは一本の花だけだ。


 リナが顔を上げる。


「修復師様。私、花を信じていいんでしょうか」


 すぐに答えられなかった。


 信じていい、と簡単に言うには、この街の花は傷つきすぎている。


 だから私は言った。


「花だけを信じるのではなく、花が何を守ろうとしているかを一緒に見ます」


 リナは涙を拭き、頷いた。


 アシュレイ陛下が私を見ていた。


 その目に、王としての怒りと、一人の男としての心配が混じっている。


 私は苦味の残る指先を握った。


 フロレアの花は、王都より近くで人を縛る。

 だからこそ、王都より近くで人を救うこともできるはずだった。


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