第41話 巡礼都市フロレア
王都の外の空は、同じ青でも少し薄く見えた。
馬車の窓から見える畑には、誓約花を植えるための低い柵がいくつも並んでいた。王都では花冠院の温室や貴族の庭で見ることが多かった花が、ここでは畑の端、家の門、井戸のそばに当然のように咲いている。
花は、生活の中にある。
だからこそ、傷つき方も王都とは違うのだろう。
「あれがフロレアへ続く花道です」
リディア様が窓の外を示した。
街道の脇に、白い小花が帯のように続いている。巡礼者が一輪ずつ植えていく「帰願草」だという。願いを抱いて都市へ行き、誓約を結び、帰りに同じ道を通る時、その花が残っていれば約束は祝福されたものとされる。
「残っていなければ?」
「約束を疑われます」
私は膝の上の道具箱に手を置いた。
疑われる。
それは、王都で聞くよりずっと重い言葉に感じた。
アシュレイ陛下は身分を隠すため、濃紺の旅装に着替えていた。王冠も、竜紋の外套もない。けれど背筋の静けさだけは隠せない。
「フロレアは古くから竜眠りの森への入口だった」
リディア様が続ける。
「今は巡礼都市として有名です。商業誓約、婚姻誓約、奉公誓約。王都の花冠院に頼れない人々が、ここで誓約花を結びます」
「民間の修復師もいるのですか」
「います。資格は花冠院ほど厳格ではありませんが、その分、土地ごとの技術が残っています」
私は少し身を乗り出した。
花冠院の外の修復。
それは、私がまだ知らない花の読み方かもしれない。
馬車は昼過ぎ、フロレアの外門に着いた。
門前には巡礼者、商人、旅芸人、怪我をした騎士、赤子を抱いた夫婦が並んでいた。誰もが何かの花を持っている。布に包んだ小さな鉢、髪に挿した一輪、胸に留めた乾いた花弁。
王都の式典花とは違う。
ここでは花が、願いの器であり、証明書であり、時には鎖でもある。
門番が私たちの通行証を確認した。
身分を隠しているとはいえ、王宮発行の花材採取許可証は強い。門番は深く頭を下げ、すぐに通そうとした。
その時、隣の列で声が上がった。
「だから、これは去年の帰願草です!」
若い男が、土のついた鉢を抱えていた。門番は冷たく首を振る。
「花が咲いていない。誓約不履行の疑いがある者は、入市税が三倍だ」
「そんな。祖母の薬を買いに来ただけで」
「規則だ」
男の鉢には、確かに葉だけが残っていた。
けれど枯れてはいない。根元に、白い花弁の跡が薄く見える。
咲かなかったのではない。
誰かが花だけを摘んだ。
私は思わず足を止めた。
ノア様が小声で言う。
「関わるな。今は身分を隠している」
「でも」
その一言だけで、アシュレイ陛下がこちらを見た。
眠らない目が、私に問いを投げる。
君はどう読む。
私は鉢の前にしゃがんだ。
「少しだけ、見せてください」
若い男は驚いたように私を見る。
門番が眉をひそめた。
「何者だ」
「花材採取班の修復師です」
嘘ではない。
私は葉に触れた。
花が最後に守ろうとした感情が、指先にかすかに乗る。
恥。
悔しさ。
そして、誰かの焦り。
帰願草は自分から散っていない。誰かが咲いた直後に花を取った。取られたあとも、根は帰りを待っている。
「この花は咲いていました」
私が言うと、門番の顔が硬くなった。
「証拠は」
「花弁跡に朝露の乾いた筋があります。摘まれたのは今朝です。去年の誓約なら根元の節がもっと締まります」
リディア様が横から覗き込み、頷いた。
「修復師の見立てとして妥当です」
門番はまだ不満そうだったが、王宮の許可証を見て黙った。
男は震える声で礼を言った。
「ありがとうございます。母が、いや祖母が、本当に待っていて」
私は小さく首を振った。
救えたというより、見過ごさなかっただけだ。
フロレアの中へ入ると、鐘の音と花の匂いが押し寄せた。通りの左右に、誓約屋、花具屋、巡礼宿、祈祷所が並ぶ。店先には「確実に咲く花」「税が軽くなる誓約」「婚姻保証花」と書かれた札が揺れていた。
アシュレイ陛下は足を止めた。
「税が軽くなる誓約とは何だ」
声は静かだった。
けれど私は、その静けさが危ういと知っている。
案内役として来た地方官吏が、慌てて笑った。
「巡礼都市独自の慣習でございます。勤勉な者を優遇するための」
「花を咲かせられない者は」
「努力が足りないと見なされます」
陛下の横顔から、表情が消えた。
王都で誓約花は、貴族の権威を飾るものだった。
ここでは税を増やし、人の入口を狭めるものになっている。
私は手元の契約紙を押さえた。
白い蕾は、まだ咲かない。
宿へ向かう道で、さっきの若い男が遠くから振り返った。彼の鉢には花がない。それでも葉はまっすぐ立っている。
壊れた花は、嘘だけを語るわけではない。
時には、まだ諦めていないことを語る。
巡礼都市フロレア。
竜眠りの森へ向かう前に、私たちはこの街の花を読まなければならない。




