第37話 王妃の残響
王妃記録箱を開ける日、屋上庭園の夜咲き花を一輪だけ部屋に置いた。
帰り花ではない。
でも、アシュレイ陛下が自分で選んだ花だった。
「これでよいのか」
陛下は花瓶を見て言った。
「はい。陛下が今へ戻る目印になります」
「母の庭の花だ」
「だからです」
王の書庫は、いつもより静かだった。
立会人は陛下、私、リディア様、ノア様。
侍女長は扉の外で待機している。
机の上には王妃記録箱。
黒布は外され、封印糸だけが残っている。
黒鱗は昨日より増えていた。
リディア様が代償記録を読み上げる。
「ミラ。甘さ、遠い。怒り、回復傾向。恐怖、正常。寂しさ、やや遠い。判断、明瞭」
「はい」
「陛下。母の記録を知るのが怖い。母が自分を守ろうとしたのか知りたい。母を怒っているか分からない」
リディア様の声が少しだけ柔らかくなる。
「確認しますか」
陛下は頷いた。
「確認する」
王が、自分の怖さを記録として認める。
そのこと自体が、修復の一歩なのだと思う。
リディア様が封印糸に触れた。
私はその手に自分の指を重ねる。
一人で読まない。
一人に背負わせない。
それが今回の条件だ。
残響が流れ込む。
白い部屋。
夜明け竜胆の香り。
若い王妃が、幼い男の子の髪を撫でている。
眠っている子ども。
黒髪。
金色の瞳は閉じている。
王妃は泣いていた。
この子には継がせないで。
この子に、記憶を奪う王冠を渡さないで。
別の声。
男の声。
王である以上、継ぐ。
国のためだ。
竜の眠りは王家のものだ。
王妃が花冠を抱く。
そこには夜明け竜胆が編み込まれていた。
竜との共眠誓約。
王が眠る時、竜が悪夢を引き受ける。
王は人の記憶を奪わない。
その誓約が、何者かによって切られている。
王妃は、自分の記憶を差し出そうとしていた。
この子が眠れるように。
この子が誰からも奪わないように。
でも、封印糸が彼女の手を縛る。
記録はここで黒く滲んだ。
私は息ができなくなった。
リディア様の手が震える。
陛下の声が遠くで聞こえる。
「戻れ」
夜咲き花の香り。
屋上庭園。
王都の灯り。
今へ戻る目印。
私は指を離した。
リディア様も同時に離れる。
部屋へ戻った瞬間、陛下が私たちの前にいた。
「何を見た」
声が低い。
怖いのではない。
怖さを抑えている声だ。
私はすぐには言えなかった。
リディア様が先に口を開いた。
「王妃様は、陛下を守ろうとしていました。竜との共眠誓約を残そうとした。でも、封印糸で止められた」
「誰に」
リディア様は答えられない。
残響の男の顔は見えなかった。
けれど声と気配には、王権の重さがあった。
「先代王、か」
陛下が自分で言った。
部屋の空気が重くなる。
ノア様が拳を握った。
「まだ断定は」
「分かっている」
陛下はそう言ったが、顔色はひどく悪かった。
私は急いで代償記録を書こうとした。
手が震える。
「何を失った」
リディア様が聞く。
私は自分の中を確かめた。
甘さ。
怒り。
恐怖。
寂しさ。
寂しさが、また遠い。
でも、それだけではない。
「母の声が、少し薄いです」
言った瞬間、陛下の顔が変わった。
「やめろ」
「陛下」
「もう読むな」
「まだ」
「もう読むな」
その声は、王命ではなかった。
悲鳴に近かった。
私は黙った。
リディア様が記録紙に書く。
ミラ、母の声の記憶に軽度低下。
追加読解停止。
契約上、二名の同意で停止できる。
陛下とリディア様が同意すれば、私はもう読めない。
悔しい。
でも、ほっとしている自分もいた。
陛下は夜咲き花の前に立った。
長い沈黙。
「母は、私を守ろうとした」
小さな声だった。
「はい」
「だが、守れなかった」
「記録は、そこで封じられました」
「なら、続きがある」
陛下が振り返る。
金色の瞳には疲労と痛みがあった。
でも、初めて怒りもあった。
「旧記録庫に、続きがあるはずだ」
その時、書庫の扉が叩かれた。
ノア様が開ける。
外にいた近衛が青ざめていた。
「旧記録庫が、花冠院長権限で封鎖されました」
リディア様が息を呑む。
オルド院長が動いた。
王妃の残響が、眠っていた記録を揺らしたのだ。




