表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/83

第36話 弱さの置き場所

 王宮には、弱さを置く場所がない。


 少なくとも、私はそう思っていた。


 廊下では背筋を伸ばす。

 夜会では微笑む。

 花冠院では記録を整える。

 王の前では、下級修復師ではなく王命特任修復師として立つ。


 どの場所にも形がある。

 形に合わないものは、袖の内側へ隠すしかない。


 でも、その日の夕方、アシュレイ陛下は私を王宮の屋上庭園へ連れていった。


 屋上庭園は、王族以外ほとんど使わない場所らしい。

 低い石壁に囲まれ、鉢植えの夜咲き花が並んでいる。

 王都の灯りが遠くに見えた。


「ここは」


「昔、母が使っていた」


 陛下はそう言った。


 王妃様の場所。


 私は思わず足を止めた。


「入ってよいのですか」


「私が許可する」


「陛下は、ここへよく?」


「来なかった」


 短い答え。


「来られなかった」


 言い直された言葉に、胸が少し痛む。


 屋上庭園の中央には、小さな石の椅子が二つあった。

 陛下はその片方に座る。

 私は少し迷って、もう片方に座った。


 夜咲き花の香りは薄い。

 強すぎない香りに、少し安心する。


「母の記録箱を開ける前に、ここへ来ておきたかった」


 陛下は王都を見下ろした。


「母がここで何を見ていたのか、少しでも知っておきたかった」


「覚えていますか」


「少しだけ」


 陛下の声は静かだった。


「母は、夜に花を見ていた。私は幼くて、なぜ昼ではないのか聞いた。母は、昼の花は皆が見るから、夜の花くらい自分だけで見たいと言った」


 王妃様らしいのか、そうでないのか、私には分からない。

 でも、その言葉だけで少し人の輪郭が見えた。


 王妃ではなく、夜の花を自分だけで見たい人。


「ミラ」


「はい」


「君は、母の記録箱を開けるのが怖いか」


「怖いです」


「何が」


 私は考えた。


 代償。

 残響。

 王妃様の死。

 陛下の傷。


 それも怖い。


 でも、一番怖いのは。


「読んだものを、陛下にどう渡せばいいか分からないことです」


 陛下がこちらを見る。


「真実は、ただ渡せばいいものではないと思います。花も同じです。強く触れすぎると折れます。でも、隠しすぎると腐ります」


「私が折れると思うか」


 王の声だった。


 少しだけ硬い。


「折れない人はいません」


 私は言った。


「陛下も、私も」


 風が吹いた。

 夜咲き花が小さく揺れる。


 陛下は長く黙っていた。


 やがて、低く言う。


「私は、折れることを許されないと思っていた」


「王だからですか」


「王だから。呪われているから。眠れば奪うから。誰かが私を見て安心するなら、私は折れていない顔をしなければならない」


 それは正しいのかもしれない。

 王としては。


 でも、人としてはあまりに苦しい。


「ここなら」


 私は夜咲き花を見た。


「少し折れても、花しか見ていません」


 陛下は驚いたように私を見た。


「慰めのつもりか」


「たぶん」


「不器用だな」


「練習中です」


 陛下は小さく笑った。


 その笑みは、夜会で見せるものとも、王の書庫で時々こぼれるものとも違った。

 少し疲れて、少し子どもっぽい。


「君は」


 陛下が言いかけて、止めた。


「何ですか」


「いや」


「気になります」


「君は、弱さを置く場所を作るのがうまい」


 私は返事に困った。


 そんなふうに言われたことはない。


「私は、保留箱を作るだけです」


「同じだ」


 陛下は夜咲き花へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。


「弱さにも保留箱がいる。すぐ裁かず、すぐ直さず、まず置いておく場所が」


 その言葉は、私自身にも返ってきた。


 母への怒り。

 怒れなかった自分。

 陛下に触れた時の温度。

 まだ名前をつけられない感情。


 それらも、今は保留箱に入れていいのかもしれない。


「陛下」


「何だ」


「私も、ここに来てもいいですか」


 言ってから、急に恥ずかしくなった。


 王族の場所。

 王妃様の場所。

 陛下の弱さの場所。


 そんな場所に、私が来たいと言うのは踏み込みすぎではないか。


 陛下は静かに答えた。


「君が来るなら、ここは少し使いやすくなる」


 胸の奥で、白い蕾がかすかに揺れた気がした。


 その夜、私たちは王妃様の記録箱を開けなかった。


 その代わり、屋上庭園でしばらく黙って花を見た。


 何も進まない時間。

 でも、必要な時間だった。


 弱さをどこかへ置けなければ、人は真実を受け取れない。


 翌朝、陛下の代償記録には一行増えていた。


 母の記録を知るのが怖い。


 王の字で、はっきりと。


 私はそれを見て、少しだけ安心した。


 怖いと書けたなら、まだ折れていない。


 折れそうな場所を、自分で見つけられたということだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ