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第35話 母の壊れた婚約花

 セレスティア様の蕾を読んだ夜、私は母の夢を見た。


 母は泣いていた。


 古い家の台所。

 雨の音。

 机の上には、壊れた婚約花。


 私はまだ幼くて、花冠院という場所も、修復師という仕事も知らなかった。

 ただ、母が大切にしていた花が黒くなり、母がそれを抱いて泣いていることだけを覚えている。


 夢の中の私は、花へ手を伸ばした。


 触れてはいけないと、誰かが言った気がする。

 でも、幼い私は触れた。


 その瞬間、母の感情が流れ込んだ。


 後悔。

 愛情。

 諦め。

 そして、私を置いていきたくないという痛み。


 朝、目が覚めると、枕が濡れていた。


 私はしばらく天井を見つめた。


 母の顔は覚えている。

 声も、手の温度も、台所の雨の音も。


 でも、母がなぜ家を出たのかは、今もよく分からない。

 父はその話をしなかった。

 親戚は、母は誓約に失敗したのだと言った。

 花冠院に入ってから、私は母の壊れた花を理解したいと思っていた。


 それが、修復師を目指した最初の理由だったのかもしれない。


 朝の代償記録に、私はこう書いた。


 母の夢。寂しさ回復傾向。痛みあり。


 痛みあり。


 不思議なことに、それは悪い記録ではない気がした。


 王の書庫へ行くと、アシュレイ陛下はすぐに気づいた。


「泣いたのか」


「夢を見ました」


「悪夢か」


「母の夢です」


 陛下はペンを置いた。


 ノア様は部屋の外へ下がり、侍女長も茶器を整えるふりをして少し離れた。


「話せるか」


「たぶん」


 私は母の婚約花のことを話した。


 母が泣いていたこと。

 幼い私が花に触れたこと。

 その時、母が私を置いていきたくなかったと読んでしまったこと。


「それが最初か」


「はい。花の感情を読んだ最初の記憶です」


「その時、何を失った」


 私は考えた。


 幼すぎて、はっきり覚えていない。

 でも、あの日以降、私は母を責める気持ちをうまく持てなくなった。


「怒りかもしれません」


 私は言った。


「母に置いていかれた怒りを、失ったのかもしれません」


 陛下は黙って聞いていた。


「怒れないのは、許しているのとは違います」


 言葉にして初めて、自分でもそう思った。


「私は母を許したのではなく、怒る力を失っただけかもしれない」


 胸が苦しくなる。


 ずっと、母を恨めない自分は優しいのだと思おうとしていた。

 でも違うのかもしれない。

 花を読んだ代償で、恨むための熱を失っただけかもしれない。


 陛下は静かに言った。


「それでも、君は母を理解しようとした」


「怒れなかったからです」


「怒れなくても、見捨てることはできた」


 その言葉に、私は顔を上げた。


「君は見捨てなかった。なら、それは君の選択だ」


 選択。


 代償で失ったものがある。

 それでも、残ったもので選んだものがある。


 私は母を理解しようとした。

 壊れた花を見捨てない修復師になろうとした。


 怒れないことだけが、私を作ったわけではない。


「陛下は」


 私は聞いた。


「陛下は、お母様を怒っていますか」


 踏み込みすぎたと思った。


 けれど陛下は、目を伏せただけだった。


「分からない」


 正直な答え。


「母は私を守ろうとしたのかもしれない。だが、何も言わずに死んだ。私には、何を継いだのかも分からないまま呪いだけが残った」


 怒り。

 悲しみ。

 置いていかれた痛み。


 王にも、それがある。


 ただ、王はそれを眠らないことで押し込めてきた。


「王妃様の記録箱を開ける前に、陛下にも代償記録が必要かもしれません」


「私の?」


「はい。何を知りたいのか。何を失うのが怖いのか。先に書いておくんです」


 陛下は少し考えた。


「母を怒っているかどうか」


「それも」


「母に会いたいかどうか」


「はい」


「母が私を愛していたかどうか」


 声が少しだけ低くなった。


 王ではなく、息子の声だった。


「それも、書いてください」


 陛下は紙を取った。


 しばらく何も書けずにいた。


 やがて、一行だけ書いた。


 母が私を守ろうとしたのなら、なぜ一人にしたのか知りたい。


 私はその文字を見て、胸が痛くなった。


 母を持つ者同士の痛み。

 失った形は違う。

 けれど、壊れた婚約花と王妃の記録箱は、少しだけ似ている。


 その日、私は自分の古い記録帳を探すことにした。


 母の婚約花について書いた、子どもの頃の記録。

 実家に残っているかもしれない。


 取り寄せれば、私自身の根も少し分かる。


 そして、王妃の記録箱を開ける時、私は陛下の母だけでなく、自分の母の痛みにも向き合うことになるのだろう。


 修復は、他人の花だけを直す作業ではない。


 自分がなぜその花を見捨てられないのか、そこまで見なければ、本当には始まらないのかもしれない。


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