第30話 触れられない距離
アシュレイ陛下が倒れかけた翌日、王宮では何もなかったことになった。
表向きには。
王は少し疲れていただけ。
夜会後の報告が重なっただけ。
医師も「過労」とだけ記録した。
王宮は、都合の悪い真実に薄い布をかけるのがうまい。
けれど、私たちの間では何もなかったことにはならなかった。
契約紙の白い蕾は、昨日より少しだけ色が薄い。
陛下が眠りに落ちかけた瞬間、人から記憶を奪う前に、契約花が眠りを受け止めた。
それは希望だ。
同時に、とても危険な希望でもある。
「再現実験はしない」
陛下は朝一番にそう言った。
私はまだ何も言っていなかった。
「顔に出ていた」
「そんなにですか」
「君は花のことになると分かりやすい」
王の書庫には、リディア様、ノア様、侍女長もいた。
全員が陛下に同意する顔をしている。
「再現しなければ、仕組みが分かりません」
「私を眠らせる実験をするつもりか」
「眠らせるのではなく、眠りに落ちかけた時に」
「同じだ」
陛下の声は硬い。
怖いのだ。
誰かを奪うことが。
契約花がまた受け止めるとしても、それが私の花に近いものだと感じているから。
「陛下」
「だめだ」
「まだ提案が」
「だめだ」
取りつく島がない。
ノア様が珍しく助け舟を出した。
「ミラ様。今回は陛下に同意します。昨夜の現象は偶発的で、条件も不明です。再現は危険すぎます」
リディア様も頷く。
「契約花が何を受け止めたのかも分かっていない。記憶ではなく、眠りそのものかもしれないし、ミラの代償を肩代わりした可能性もある」
「私の?」
「あなた、昨夜は何も失っていないように見えるでしょう」
言われて、私は自分の記録を見た。
恐怖、強い。
安堵、遅れてあり。
甘さ、遠い。
触れた時の温度、記憶あり。
たしかに、新しい欠落はない。
陛下の眠りを支えた代償を、契約花が受け止めたのだとしたら。
私たちの契約は、ただの紙ではなく、二人の間に生まれた花として機能し始めている。
それは嬉しいことのようで、怖い。
契約花が傷つけば、何が壊れるのか分からない。
「だから、再現はしない」
陛下が言った。
「分かりました」
私はようやく頷いた。
納得したわけではない。
ただ、今は進むべきではないと分かった。
その日の午後、私は東翼の小庭で休憩を取るよう命じられた。
命じられた、というより、侍女長とリディア様とノア様に囲まれて追い出された。
「休むのも仕事です」
侍女長はそう言った。
小庭には、保留の紫花が植えられている。
まだ誓約に結ばれていない花。
決める権利を相手に預けない花。
私はベンチに座り、記録帳を開いた。
触れた時の温度、記憶あり。
その一行を見て、顔が熱くなった。
なぜ書いたのだろう。
修復記録としては不要だ。
代償記録としても不要だ。
でも、消せなかった。
陛下の肩に触れた時、眠りへ落ちかけた体の重さを感じた。
冷たいと思っていた手は、思ったより熱かった。
王ではなく、人の体だった。
そのことを、忘れたくなかった。
「消さなくてよいのではありませんか」
声がして、私は記録帳を閉じた。
セレスティア様が小庭の入口に立っていた。
「いつから」
「あなたが記録帳を睨んでいたところから」
「見ましたか」
「字までは。ただ、消すか迷っている顔でした」
彼女は隣に座った。
王宮の小庭のベンチに、公爵令嬢がためらいなく座る。
先日の茶会より、少しだけ距離が近い。
「陛下に触れたのね」
「事故です」
「事故で顔がそこまで赤くなるなら、王宮中が事故だらけになりますわ」
「セレスティア様」
「からかっているのではありません」
彼女は胸元の蕾に触れた。
「触れられない距離というのは、思ったより人を苦しめるものです」
私は黙った。
「父は、私を王妃候補として育てました。けれど陛下は、誰も近づけなかった。私も近づけなかった。あの方が拒んでいたのは私ではなく、眠りそのものだと今なら分かります」
「セレスティア様は、陛下を」
「恋していたか、という問いなら、答えは難しいわ」
彼女は少しだけ笑う。
「憧れました。尊敬しました。隣に立つ自分を想像したこともあります。でも、あの方の眠りのそばに行きたいと思ったことはなかった」
眠りのそば。
その言葉が、胸に落ちる。
「あなたは?」
「私は」
答えられない。
陛下を救いたい。
眠れるようにしたい。
契約を守りたい。
花冠を修復したい。
でも、それだけではなくなっている。
触れた時の温度を、消したくなかった。
それは、修復師としての感情ではないのかもしれない。
「分からない顔ね」
「はい」
「なら、まだ咲かせないことです」
セレスティア様は立ち上がった。
「花は、急がせると歪みます」
彼女自身の蕾が、かすかに揺れた。
夕方、王の書庫へ戻ると、陛下は机に向かっていた。
私を見るなり言う。
「休めたか」
「少し」
「ならよい」
触れた時の温度を思い出して、私は視線を逸らした。
陛下が不思議そうにする。
触れられない距離。
眠りの呪い。
契約花。
私たちの間には、まだいくつもの花冠がある。
でも、遠すぎるとはもう思えなかった。
近づけば眠りが危うい。
離れれば心が分からない。
そのあわいで、私たちは次の修復へ進むしかない。




