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第29話 倒れかけた王

 ユリアン・セイルからの手紙を読んだアシュレイ陛下は、旧記録庫へ行くことを許可しなかった。


「罠だ」


 ノア様と同じ答え。


「罠かもしれません」


「なら行かない」


「でも、二番棚には何かがあります」


「何かがある場所に、君を誘い出す罠かもしれない」


 正論だ。

 最近、周囲の人たちが正論で私を止める技術を上げている気がする。


 王の書庫には、祝福花事件の報告書が積まれていた。

 神殿監督官は意識を取り戻したが、乾杯直後からの記憶が曖昧だという。

 ユリアン・セイルは行方不明。

 花冠院は「自宅謹慎中」と報告したが、近衛が確認すると宿舎は空だった。


 誰かが隠した。

 あるいは、消した。


 陛下は報告書を読み、次々と指示を書きつけている。

 その速度が、いつもより少し遅い。


 私は気づいていた。


 まばたきが増えている。

 指先の震えが強い。

 声が低く、短くなっている。


 眠気。


 十年押し殺してきたものが、今夜はかなり近くまで来ている。


「陛下」


「何だ」


「休憩を」


「必要ない」


「あります」


 ノア様が即座に援護した。


「陛下。ミラ様に同意します」


「君たちは最近、組むようになったな」


「陛下が休まれないので」


 陛下はペンを置いた。


「眠れば奪う」


「眠らなくても倒れます」


 私が言うと、陛下は少しだけ目を伏せた。


「倒れるだけなら、まだいい」


「よくありません」


「私が眠って誰かの記憶を奪うよりは」


 その言葉は、部屋の空気を重くした。


 誰もすぐに返せなかった。


 陛下にとって、自分の体はすでに交渉材料なのだ。

 倒れるだけならいい。

 壊れるだけならいい。

 誰かを奪わずに済むなら。


 私は机の上の修復契約書を見た。


 王は睡眠の修復を諦めない。


 自分で書かせた条項だ。


「陛下。契約違反です」


 陛下が顔を上げる。


「何?」


「王は睡眠の修復を諦めない。今の発言は、倒れるだけならいいという諦めに近いです」


 ノア様が目を見開いた。

 リディア様がいたら、たぶん頭を抱えたと思う。


 でも、陛下は怒らなかった。


 むしろ、疲れたように笑った。


「契約で王を叱る下級修復師か」


「王命特任修復師です」


「そうだった」


 陛下は立ち上がろうとした。


 その瞬間、体が揺れた。


「陛下!」


 ノア様が駆け寄る。

 私も反射的に手を伸ばした。


 陛下の肩に触れる。


 しまった、と思った。


 触れれば眠りたくなる。


 でも、引くより先に、陛下の体から力が抜けた。


 完全に眠ったわけではない。

 落ちかけた。

 深い穴の縁に足を滑らせたような、一瞬の落下。


 その瞬間、机の上の花が震えた。


 十五番。

 保留の紫花。

 契約紙の白い蕾。


 花たちが一斉に、陛下の眠りへ引き寄せられる。


 私は陛下の肩を支えたまま、叫んだ。


「花を見てください!」


 誰に向けた声か、自分でも分からなかった。


 ノア様が十五番の箱を押さえる。

 侍女長が窓辺の保留花を掴む。

 私は契約紙の白い蕾へ視線を向けた。


 小さな白い蕾が、震えながら光っている。


 王が眠りに落ちる時、何かを奪う。

 でも今、花たちは奪われる前に支えようとしている。


 ほんの一瞬。


 陛下のまぶたが上がった。


 金色の瞳が、私を見た。


「触れるなと、言っただろう」


 声は弱かった。


「倒れるなとも言いました」


 私は息を切らして答えた。


 ノア様が椅子を引き寄せ、陛下を座らせる。


 侍女長が医師を呼びに走る。


 私は手を離そうとして、陛下に手首を掴まれた。


「何か奪ったか」


「分かりません」


「確認しろ」


 怖い声だった。

 自分が倒れたことより、誰かを奪った可能性を恐れている。


 私は急いで周囲を見る。


 ノア様。

 侍女長。

 近くにいた書記官。

 誰も明らかな混乱はない。


 ただ、契約紙の白い蕾が少しだけ色を失っていた。


「人からではなく、花が受けました」


 私は言った。


「たぶん、契約の花が」


 陛下の顔が歪む。


「君の花か」


「私たちの契約の花です」


「同じだ」


「違います」


 私は手首を掴む陛下の手に、そっと反対の手を添えた。

 触れすぎないように。

 でも、離れすぎないように。


「一人から奪うのではなく、花が支えました。これは手がかりです」


 陛下は目を閉じた。

 眠るのではなく、耐えるために。


「君は、私が恐れているものを希望に変える」


「修復師なので」


「便利な言葉だ」


 何度目かのやり取り。


 でも今は、少し意味が違った。


 王の眠りは、完全に止めるしかないものではない。

 花が支えられるかもしれない。

 契約花が、記憶を奪う前に受け止められるかもしれない。


 小さな手がかり。

 危険な手がかり。


 医師が来て、陛下は強制的に休憩させられた。

 もちろん眠りはしない。

 椅子に座り、目を閉じるだけ。


 私はその隣で、契約紙の白い蕾を記録した。


 色、わずかに低下。

 形、維持。

 残響、微弱な眠り。

 記憶喪失被害、現時点で確認なし。


 そして自分の記録も書く。


 恐怖、強い。

 安堵、遅れてあり。

 甘さ、遠い。

 触れた時の温度、記憶あり。


 最後の一行を書いてから、私は筆を止めた。


 触れた時の温度。


 そんなものを記録する必要はない。


 でも、消したくなかった。


 陛下が眠りかけた夜、私は初めて、この人の眠りを怖いだけではないものとして感じた。


 救えるかもしれない。


 その希望は、確かに残酷だった。


 けれど、もう見なかったことにはできない。


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