第28話 忠誠花
祝福花事件のあと、ノア様はさらに無口になった。
もともと多弁な人ではない。
けれど今は、廊下を歩く時の足音まで硬い。
王宮中が疑わしい。
花冠院も、貴族院も、夜会の給仕も、祝福花を運んだ侍女も。
近衛としては当然なのだろう。
でも私は、ノア様自身が少しずつ追い詰められているように見えた。
「ノア様」
「何だ」
「休んでいますか」
「君に言われるとは思わなかった」
「私も言う資格は薄いですが」
「薄いな」
容赦がない。
その日、私たちは祝福花の搬入経路を調べるため、王宮花材庫へ向かっていた。
花材庫は花冠院とは別管理だが、式典用の花はここを通る。
倉庫には、眠り花、祝福花、香草、銀蔓、各種リボンが整然と並んでいた。
花の匂いが強い。
けれど、祝福花事件のあとでは、ただ甘いだけの香りも疑わしく感じる。
管理官が記録を差し出した。
「祝福花の箱は、神殿から封印済みで届いております。王宮で開封したのは夜会直前です」
ノア様が記録を確認する。
「開封担当は」
「神殿監督官、花冠院立会人、王宮花材庫員の三名です」
「花冠院立会人の名は」
管理官は少し顔をしかめた。
「若手の正修復師、ユリアン・セイルです」
私は第十話の廊下を思い出した。
旧作業室で、私に声をかけた若い正修復師。
花を読みすぎる人は、自分が読まれていることに気づかない。
彼だ。
ノア様も覚えていたようで、表情が鋭くなる。
「所在は」
「花冠院に戻ったはずですが」
はず。
王宮でその言葉は、だいたい悪い知らせの前に来る。
花材庫を出ると、ノア様は近衛に指示を飛ばした。
ユリアン・セイルの所在確認。
花冠院立会記録の封印。
神殿監督官の意識回復確認。
私はその横で、花材庫の棚に飾られた忠誠花を見ていた。
騎士が叙任時に触れる花。
青みがかった銀の小花で、棘はないが茎が強い。
「見るな」
ノア様が言った。
「まだ何も」
「見ようとした」
「すみません」
「謝るな」
怒っているというより、疲れている声だった。
「ノア様の忠誠花も、あの花ですか」
「そうだ」
「どこに」
「近衛詰所の封印箱にある」
「読まれたくないのですよね」
「ああ」
短い答え。
私はそれ以上聞かないつもりだった。
でも、ノア様の方から続けた。
「私は、陛下が初めて記憶を奪った夜に近くにいた」
足が止まる。
花材庫の廊下は、人通りが少ない。
遠くで台車の音がするだけだ。
「侍女が弟の名を忘れた夜ですか」
「ああ」
ノア様は壁際の花灯りを見た。
「私は、偶然だと思いたかった。陛下もそう思いたがっていた。だが次が起きた。庭師が妻の声を忘れた」
「その時も」
「近くにいた」
彼の声が硬くなる。
「私は近衛だ。王を守るためにいる。だが、王が眠ることで誰かを傷つけるなら、私は何から王を守ればいいのか分からなくなった」
忠誠花。
それは、王を守る誓約だ。
でも王自身が、自分を危険だと思っている。
その時、忠誠はどこへ向かえばいいのだろう。
「ノア様は、陛下を責めましたか」
「責められれば楽だった」
アシュレイ陛下と同じようなことを言った。
似ている。
王と近衛は、違う形で同じ夜に縛られている。
「私の忠誠花は、一度黒くなった」
ノア様は言った。
「陛下を守りたいのか、陛下から人を守りたいのか分からなくなったからだ」
「今は」
「戻った。完全ではないが」
「どうして」
「陛下が眠らないと決めたからだ」
胸が痛んだ。
陛下が眠らないことは、ノア様の忠誠花も支えていた。
王が自分を削ることで、近衛の誓約も壊れずに済んでいた。
それは、あまりにも苦しい形だ。
「ノア様」
「何だ」
「いつか、陛下が眠れるようになったら、ノア様の忠誠花も読み直してよいですか」
「なぜ」
「王を守る花が、王の眠りを敵にしなくて済むように」
ノア様は長く黙った。
やがて、低く言った。
「その時、私が許可したらな」
「はい」
「勝手に読むな」
「読みません」
小さな約束だった。
でも、私にとっては大事な約束だった。
その時、近衛の一人が走ってきた。
「フェルゼン卿。ユリアン・セイルが見つかりません。花冠院の宿舎にも、作業室にも不在です」
ノア様の顔が変わる。
「逃げたか」
「不明です。ただ、彼の机にこれが」
差し出されたのは、小さな封筒だった。
宛名は、私。
ミラ・リースへ。
中には、白い花びらが一枚。
そして短い文。
花は読まれる前に、読む者を選ぶ。
旧記録庫の二番棚を見ろ。
ノア様が封筒を取り上げる。
「罠だ」
「かもしれません」
「行くな」
「一人では行きません」
「そういう問題では」
言いかけて、ノア様はため息をついた。
「陛下に報告する」
忠誠花の話は、そこで終わった。
けれど私は覚えている。
ノア様の忠誠花もまた、王の眠りに傷つけられた花なのだ。
この呪いは、王だけを縛っているのではない。
王を守る人の花まで、静かに縛っている。




