第24話 夜会の笑い声
春祭りの夜会は、花の海だった。
王宮大広間の柱には白銀の蔓が巻かれ、天井からは祝福花の灯りが降っている。貴族たちはそれぞれの家の誓約花を胸に飾り、誰と誰が近づき、誰が距離を取るかを花の配置だけで語っていた。
花冠院の儀礼書で読んだことはある。
けれど、実際にその中へ入るのは初めてだった。
息を吸うだけで、香りの意味が多すぎる。
白薔薇は社交。
金月桂は忠誠。
青鈴花は遠縁の同盟。
赤い棘花は警戒。
見すぎてはいけない。
人を見る。
言葉を聞く。
場を見る。
そのあとに花を見る。
私は自分に言い聞かせた。
胸元には、保留の紫花と、セレスティア様からもらった白薔薇の花びら。
白薔薇を挿した瞬間、侍女長は少しだけ眉を上げた。
「セレスティア様から?」
「はい」
「では、つけましょう。毒ではなさそうです」
王宮では花びら一枚にも毒の可能性がある。
油断できない。
アシュレイ陛下は、広間の入口で私を待っていた。
深紺の礼服。
銀糸の竜。
王冠はまだない。
戴冠花冠の異常が解決していないため、今夜は儀礼用の小冠だけだ。
それでも、陛下が立つだけで周囲の空気が整う。
「顔が硬い」
「刺さらない微笑みがまだ」
「刺してもよい相手はいる」
「陛下までそういうことを」
陛下は少しだけ口元を緩めた。
「セレスティアに何か言われたな」
「逃げる技術は重要だと」
「正しい」
どうやら王宮礼法の裏側では常識らしい。
陛下が腕を差し出した。
「行こう」
私はその腕に手を添えた。
触れすぎないように。
眠りを誘わないように。
その距離が、私たちの仮婚約をよく表していた。
広間に入る。
笑い声が、波のように引いた。
そしてまた、別の形で戻ってくる。
「あれが」
「下級修復師」
「思ったより」
「リース家でしょう?」
「花冠院で処分品を」
「陛下も思い切ったことを」
聞こえないふりをする。
床へ沈まない。
謝りすぎない。
花を見すぎない。
私は陛下の隣を歩いた。
最初に近づいてきたのは、老伯爵夫妻だった。
礼儀正しく、毒のない挨拶。
次に商会代表。
その次に神殿の誓約監督官。
私は何度も礼をし、何度も微笑み、何度も自分の靴先を確認した。
踏まない。
踏まれない。
半刻ほど経った頃、最初の笑い声が正面から来た。
若い貴族令嬢が三人。
胸元には赤い棘花。
警戒と嘲りの香り。
「ミラ様は、第三修復室にいらしたとか」
「はい」
「まあ。では、壊れた花冠にはお詳しいのね」
「それだけが取り柄です」
微笑む。
刺さったかもしれない。
令嬢の一人が扇で口元を隠した。
「陛下の花冠も、壊れていらっしゃるのかしら」
空気が変わった。
王家の花冠を笑う。
しかも、陛下の前で。
周囲が聞き耳を立てる。
私は返事を探した。
怒りは、まだ少し鈍い。
でも、花を踏まれた時の痛みは分かる。
「花冠は壊れることがあります」
私は言った。
「ですが、壊れたことを笑う人には、修復を任せません」
令嬢の笑みが固まった。
陛下の腕が、わずかに動く。
止められるかと思った。
でも、陛下は止めなかった。
代わりに静かに言った。
「私も同意見だ」
周囲がさらに静かになる。
令嬢たちは慌てて礼をし、下がった。
私は息を吐いた。
「刺しましたか」
「少し」
「マルタ先生に怒られます」
「私が許す」
「陛下が甘いと、先生が」
「甘いか」
陛下がこちらを見る。
その声には、ほんの少しだけからかいが混じっていた。
甘さはまだ遠い。
でも、今の会話の温度は分かった。
次に近づいてきたのは、ヴァーン公爵だった。
セレスティア様の父。
貴族院の中心。
白髪に近い銀髪、穏やかな笑み、胸元には大輪の白薔薇。
完璧な貴族の花。
「陛下。ミラ様。今宵は誠に華やかでございますな」
公爵は私へ向き直る。
「セレスティアの花びらをおつけくださったのですね。娘も喜びましょう」
セレスティア様の助言を思い出す。
父は優しく、礼儀正しく近づく。
何も約束しないこと。
感謝も少なめに。
逃げ道を確保すること。
「いただいた花を踏まないようにしただけです」
公爵の笑みがわずかに深くなった。
「花を大切になさる。よいことです。ですが王の隣に立つ花は、時に自ら散ることも国のためになります」
来た。
陛下の空気が冷える。
私は公爵の胸元の白薔薇を見そうになり、堪えた。
人を見る。
言葉を聞く。
場を見る。
「散るか咲くかは、花自身が決めることだと教わりました」
「誰に」
「セレスティア様に」
公爵の笑みが、一瞬だけ止まった。
その一瞬で十分だった。
私は陛下の腕に添えた手へ、ほんの少し力を込める。
逃げたい合図。
陛下はすぐに応じた。
「失礼する。神殿監督官と話がある」
私たちは公爵から離れた。
背中に視線が刺さる。
広間の向こうで、セレスティア様がこちらを見ていた。
彼女は扇で口元を隠している。
笑っているのか、怒っているのか分からない。
ただ、胸元の咲かない蕾が、ほんの少しだけ揺れた。
夜会はまだ始まったばかりだった。
笑い声は花の香りに紛れて、いくつも広間を漂っている。
そのどれが毒で、どれがただの香りなのか。
私はまだ、見分けきれていなかった。




