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第22話 刺さらない微笑み

 王宮礼法の教師は、笑顔で人を折る人だった。


 名前はマルタ・レイン。

 元伯爵夫人で、現在は王宮礼法顧問。

 白髪をきっちりまとめ、薄桃色の扇を持ち、言葉は柔らかい。


「ミラ様。今の礼は、相手に謝罪しながら床へ沈みたい時の礼です」


「そのような礼があるのですか」


「ありません。ですから直しましょう」


 柔らかい。

 とても柔らかい。

 柔らかいのに、逃げ場がない。


 侍女長エルナ様は横で満足げに頷いている。


「背筋を伸ばす。肩を落とす。目線は相手の胸元ではなく、喉元あたり。花を見ない」


「花を見ないのが一番難しいです」


「でしょうね」


 マルタ先生は扇で私の顎を少し上げた。


「あなたは修復師ですから、花を見る。そこは消せません。なら、見る順番を変えなさい」


「順番?」


「人を見る。言葉を聞く。場を見る。そのあとに花を見る。花だけを先に読むから、相手に本心を覗かれたと警戒されるのです」


 それは礼法というより、修復師としても必要なことに聞こえた。


 花は嘘をつかない。

 でも、花だけを見れば人を見落とす。


 十五番の時も、エミリア様の声を聞かなければ、花冠の恐怖はただの状態で終わっていたかもしれない。


「分かりました」


「では、微笑みを」


 私は練習した微笑みを作った。


 マルタ先生は扇を閉じた。


「それは刺します」


「刺さりますか」


「相手によっては宣戦布告です」


 侍女長が真顔で言う。


「昨日よりは良くなりました」


「昨日は何だったのですか」


「威嚇です」


 私は鏡を見た。

 鏡の中の私は、仮婚約者のドレスを着ている。

 淡い灰青の練習着。

 髪は簡単にまとめられ、胸元には保留の紫花を模した小さな飾り。


 第三修復室の作業着とはまるで違う。


 でも、顔は私だ。

 少し困っていて、少し疲れていて、花を見そうになるたびに目が泳ぐ。


「私、王の隣に立てるのでしょうか」


 口にした瞬間、部屋の空気が少し変わった。


 マルタ先生は扇を下ろした。


「立てるかどうかではありません。立つのです」


「それは根性論では」


「王宮礼法の半分は根性です」


 意外なことを言われた。


「残り半分は」


「観察です。あなたはそちらが得意でしょう」


 マルタ先生は少しだけ笑った。


「王の隣に立つ者に必要なのは、完璧な血筋ではありません。誰が何を見て、何を見ないふりをしているか分かることです」


「それなら、修復師の仕事に似ています」


「ええ。ですから、あなたは貴族令嬢の真似をしなくてよろしい。修復師として立ちなさい」


 その言葉は、予想外に胸へ落ちた。


 仮婚約者として整えられるほど、自分が薄くなる気がしていた。

 でも、礼法は私を別人にするためだけのものではないらしい。

 花を読む私が、踏まれないための足場にもなる。


 午後、アシュレイ陛下の前で礼の確認が行われた。


 陛下は書庫の中央に立ち、私は少し離れて礼をする。

 ノア様、侍女長、マルタ先生が見ている。


 緊張で、指先が冷たい。


 私は一度だけ息を吸った。


 人を見る。

 言葉を聞く。

 場を見る。

 そのあとに花を見る。


 陛下を見る。


 眠っていない目。

 疲れた肩。

 それでも、私を試すのではなく、失敗しても受け止めるように待っている姿勢。


 私は礼をした。


 床へ沈まない。

 謝りすぎない。

 相手に自分を明け渡さない。


 顔を上げると、陛下が静かに頷いた。


「よいと思う」


 マルタ先生がすぐに言った。


「陛下、それでは甘すぎます」


「そうか」


「はい。ミラ様、形はまだ崩れています。ただ、先ほどより自分で立とうとしています。そこはよろしい」


 褒められたのか、直されたのか分からない。


 陛下は少しだけ口元を緩めた。


「私は甘いらしい」


「陛下の甘さは分かりにくいです」


「君は甘さが遠いのだったな」


 その言葉で、部屋の空気が一瞬静かになった。


 代償の話。

 修復師としての私の欠け。


 マルタ先生は、初めてそれを知ったようだった。


「ミラ様」


「はい」


「夜会では、甘さを感じられなくても、甘い菓子は食べてください」


「なぜですか」


「食べないと、毒を疑われます。食べすぎると、緊張を疑われます。ほどほどに食べるのです」


 現実的すぎる助言だった。


 侍女長が補足する。


「陛下が手をつけた皿から取れば、毒の危険は減ります」


「陛下の皿を?」


「仮婚約者ですから、不自然ではありません」


 不自然ではない。

 その言葉が、妙に不自然に聞こえる。


 陛下は真面目な顔で言った。


「夜会では、私の皿から取れ」


「命令ですか」


「毒対策だ」


「分かりました」


 ノア様が横から言う。


「ただし、陛下も毒見後の皿をお取りください」


「私まで管理されるのか」


「十年待ちましたので」


 またその言葉。


 陛下は少しだけ困った顔をした。


 私はそれを見て、笑いそうになった。


 刺さらない微笑みの練習は難しい。

 けれど、自然に笑うことは少しずつ戻ってきている。


 甘さは遠い。

 でも、王宮で自分の立ち方を覚えることは、少しだけ甘いことなのかもしれない。


 夜会まで、あと二日。


 私の礼はまだ不完全で、微笑みは少し刺さる。

 それでも、私はもう床へ沈みたい礼をしない。


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