第21話 仮婚約者の部屋
王命特任修復師という肩書きは、私の生活を少しも楽にしなかった。
むしろ、ややこしくした。
花冠院の下級修復師だった頃、私の朝は単純だった。
第三修復室へ行く。
銀盆を並べる。
処分予定の花冠を分類する。
上級修復師に叱られない程度に記録を整える。
たまに、どうしても見捨てられない花を保留箱へ入れる。
今は違う。
目覚めると、東翼の客室には侍女が三人いる。
花瓶には保留の紫花。
扉の外には近衛。
机の上には王命特任修復師としての調査書類と、仮婚約者としての礼法予定表が積まれている。
同じ一日なのに、なぜこんなに花冠が増えたのだろう。
「ミラ様。まずは朝の挨拶練習です」
侍女長エルナ様は、容赦がない。
「おはようございます、ではいけませんか」
「相手によります。侍女にはそれで結構。王族には身分差を含めた礼を。貴族院議員には笑顔を見せすぎず、しかし敵意も見せず。花冠院関係者には不用意に謝らない」
「最後が難しいです」
「あなたは謝る顔をしすぎます」
「顔も直せますか」
「直します」
言い切られた。
鏡の前に立たされ、私は三種類の微笑みを練習した。
受け流す微笑み。
聞こえなかったことにする微笑み。
相手が失礼だと気づかせる微笑み。
「三つ目は難しいです」
「セレスティア様は幼少期に習得されました」
「あの方は参考にしてよいのでしょうか」
「とてもよい教材です。ただし真似しすぎると刺さります」
刺さる微笑み。
確かにセレスティア様はできそうだ。
昼前、アシュレイ陛下から呼び出しがあった。
王の書庫へ向かう途中、廊下の空気が変わったのを感じる。
すれ違う貴族たちが、私を見て、私の胸元を見て、髪飾りを見て、最後に靴を見る。
花ではなく、人を品定めする視線。
以前なら俯いて通り過ぎた。
けれど侍女長に叩き込まれたばかりだ。
謝りすぎない。
見られている時ほど、背筋を伸ばす。
花を見すぎない。
私は前を向いて歩いた。
扉の前でノア様が待っていた。
「顔が硬い」
「受け流す微笑みの練習中です」
「それは威嚇に近い」
「まだ習得途中です」
ノア様は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
書庫に入ると、アシュレイ陛下はいつもの机にいた。
ただし、今日は書類ではなく花冠が置かれている。
小さな練習用の花冠。
王宮礼法で使う、挨拶用の仮花冠だ。
「侍女長から報告があった」
「私の顔が直らない件ですか」
「そこまでは言っていない」
「では、何を」
「夜会に出る準備だ」
胸が少し沈んだ。
春祭りの夜会。
王の仮婚約者として、私が初めて公の場に立つ場所。
十五番の公開裁定で名前は広まった。
けれど夜会は別だ。
そこでは、花冠の真実より、立ち姿、家格、ドレス、誰が隣にいるかが意味を持つ。
「出ない選択肢は」
「ない」
「ですよね」
陛下は練習用花冠を手に取った。
「仮婚約者として私の隣に立つ。だが、君は修復師でもある。夜会には祝福花が集まる。何か仕掛けられる可能性がある」
「私が狙われるのですか」
「君も、私も、君の花を見る者も」
君の花。
私は胸元を見た。
まだ、自分の誓約花はない。
契約紙に浮かんだ白い蕾の模様だけだ。
「私は、花を咲かせなければいけませんか」
陛下は即答しなかった。
その沈黙が、少し意外だった。
「王宮は求めるだろう」
「陛下は」
「私は、君が無理に咲かせる必要はないと思う」
胸の奥が少し緩む。
「ただし」
やはり続きがあった。
「咲かない花を、周囲は勝手に解釈する。セレスティアの蕾がそうであるように」
セレスティア様の胸元の蕾。
咲かず、枯れず、閉じたままの花。
あれはただの飾りではない。
きっと、彼女自身の誓約に関わるものだ。
「夜会でセレスティア様も?」
「来る」
「ヴァーン公爵も」
「来る」
陛下の声が少し低くなった。
十五番の再調査は、ヴァーン家へ届き始めている。
王妃候補花冠試作と封印糸第二七束のつながりも、まだ表には出していないが、向こうも何かを察しているだろう。
夜会は、花と音楽の場ではない。
政治の花冠だ。
私は練習用花冠を見た。
「では、練習します」
「無理はするな」
「無理と練習の境目が分かりません」
「なら、私が止める」
その言葉が自然に出たことに、陛下自身も少し驚いたようだった。
私も驚いた。
止める。
守る。
所有しない。
修復契約で交わした言葉が、少しずつ日常の中へ混ざっていく。
練習用花冠を頭に載せる。
軽いはずなのに、重かった。
王の隣に立つための重さ。
王宮中の視線に晒される重さ。
仮の婚約が、仮では済まなくなっていく重さ。
「ミラ」
陛下が私を呼んだ。
「はい」
「嫌なら、顔に出していい」
「侍女長には出すなと言われました」
「私の前では」
私は少しだけ笑った。
今度は受け流す微笑みではなく、たぶん私自身の笑みだった。
「では、嫌です」
「そうか」
「でも、出ます」
陛下は練習用花冠の位置を直した。
指先が髪に触れるか触れないかの距離で止まる。
触れれば眠りたくなる。
第十二話の言葉を思い出す。
陛下も思い出したのか、手を引いた。
「夜会までに、触れずに直す技術を身につける」
「それは王の仕事ですか」
「今は仮婚約者の相手役の仕事だ」
その言い方が少し不器用で、私はまた笑った。
王宮生活は難しい。
仮婚約者の部屋は落ち着かない。
夜会は怖い。
それでも、花の墓場にいた頃より、私は少しだけ自分が生きている場所にいる気がした。




