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第18話 増える黒鱗

 旧記録庫の王妃記録箱は、すぐには開けられなかった。


 箱にかけられた黒布には、封印糸が何重にも巻かれている。

 しかも、その糸の一部が黒く鱗のように硬化していた。


 戴冠花冠と同じものだ。


 私は指を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。


 契約書の条項が頭に浮かぶ。

 読解のたび、代償記録を作成する。

 限界を申告した場合、王命であっても中止する。

 代償が一定以上進んだ場合、本人の意思に関わらず停止する。


 自分で求めた契約なのに、今は少しもどかしい。


 でも、もどかしいと思えるだけ、まだ私の感情は残っている。


「触れる前に記録を」


 リディア様が言った。


 私は頷き、紙を広げた。


 甘さ、低下中。

 怒り、鈍い。

 恐怖、回復傾向。

 寂しさ、やや遠い。

 判断、明瞭。


 最後の一行は、リディア様に言われて追加した。

 感情だけでなく、判断が濁っていないかも記録する。


 オルド院長は、その様子を静かに見ていた。


「ずいぶん慎重なことで」


「必要な慎重さです」


 リディア様が答えた。


「それとも院長は、修復師の代償記録を不要とお考えですか」


 院長は微笑んだ。


「もちろん、必要です」


 言葉は正しい。

 花は、その言葉に反応しない。


 けれど私は、この人の正しさが怖い。


 陛下が黒布の箱を見ていた。

 表情は動かない。

 でも、金色の瞳の奥で何かが張り詰めている。


「母の記録か」


 誰に聞くでもない声だった。


 リディア様が静かに答える。


「おそらく」


「私は、母の死についてほとんど知らない」


 旧記録庫の空気が重くなる。


「病死だと聞かされた。花冠院も、宰相府も、神殿も同じ記録を出した」


 陛下はオルド院長を見た。


「君も、そう報告したな」


「当時、私は副院長でした。公式記録に基づき、そう申し上げました」


「公式記録は、誰が作った」


 院長は一拍置いた。


「当時の院長です」


「君は関わっていないと?」


「確認作業には関わりました」


「便利な言い方だ」


 陛下の声が冷える。


 私はその冷たさに、少しだけ安心した。

 怒りを持てる人は、まだ完全には壊れていない。


 黒布の箱が、かすかに鳴った。


 中からではない。

 封印糸の黒い鱗が、増えている。


 リディア様が顔色を変えた。


「陛下。離れてください」


 陛下は動かない。


「母の記録だ」


「だからです」


 リディア様の声が震える。


「王妃様の記録は、陛下に反応します。今の戴冠花冠の異常と接続しているなら、近づくだけで呪いが動くかもしれません」


 黒い鱗が、また一枚増えた。


 そして、遠くで鐘が鳴った。


 王宮の地上。

 封印花廊の方角。


 ノア様が階段側へ走る。

 すぐに戻ってきた。


「戴冠花冠の黒鱗が増殖しています。封印箱の硝子に亀裂」


 旧記録庫の箱と、封印花廊の戴冠花冠が連動している。


 私は黒布の箱を見た。


 ここを開けなければ、原因は分からない。

 でも開ければ、呪いが強まるかもしれない。


 陛下が言った。


「開ける」


 リディア様が首を振る。


「準備が足りません」


「時間も足りない。十周年儀式は二日後だ」


「だからこそ」


「儀式で戴冠花冠が砕ければ、王家の誓約が公衆の前で崩れる」


 その意味は重い。


 王家の戴冠花冠は、国と民の誓約だ。

 それが儀式で黒く砕ければ、王の正統性だけでなく、王国中の誓約制度が揺らぐ。


 オルド院長が静かに言った。


「陛下。旧記録庫の箱を開けるより、戴冠花冠の黒化部分を切除すべきです」


 私は思わず院長を見た。


「切除?」


「黒鱗部分を取り除き、儀式に必要な形を保つ。古来より、王家花冠の緊急処置として認められています」


「でも、原因は残ります」


「儀式を乗り切ることが優先です」


 それは、とても王宮らしい考え方だった。


 形を保つ。

 理由は後回し。

 花がなぜ枯れたかではなく、枯れていないように見せる。


 十五番の花冠と同じだ。


「だめです」


 私は言った。


 院長の目がこちらを向く。


「下級修復師が判断することではありません」


「仮婚約者としても言います。だめです」


 声が震えた。

 怖い。

 でも、ここで黙れば、私は十五番を処分棚に戻したのと同じになる。


「黒鱗を切って儀式を乗り切れば、王家の花冠は形だけ残ります。でも、呪いは残る。次に枯れる時は、もっと深くなります」


 院長は冷静だった。


「では、儀式当日に王家の誓約が崩れてもよいと?」


「崩れかけているものを、崩れていないふりで人前に出す方が危険です」


 旧記録庫に沈黙が落ちた。


 陛下が私を見た。


「ミラ。君は、今ここで箱を読むべきだと思うか」


 私は黒布の箱を見た。

 読めば、何かを失う。

 たぶん、軽くは済まない。


 でも、読まずに切除すれば、もっと大きなものが失われる。


「読みます。ただし、王妃様の記録箱を直接ではなく、黒布の封印糸から」


 リディア様が頷いた。


「それなら、残響は少し浅い」


 陛下は言った。


「記録を」


 私は紙へ書き足した。


 読解対象、王妃記録箱封印糸。

 目的、黒鱗増殖原因の確認。

 限界時、即時停止。


 そして、黒布の糸に触れた。


 流れ込んできたのは、泣き声だった。


 女の人の声。

 子どもを抱く腕。

 竜の寝息。


 この子には継がせないで。


 その声がした瞬間、封印花廊の方角で硝子が割れる音が響いた。


 戴冠花冠の黒鱗が、ついに封印を破り始めた。


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