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118/120

第118話 一人の男として

 アシュレイ陛下は、王宮庭園ではなく再読室へ来た。


 正式な求婚なら、もっとふさわしい場所がある。


 王宮礼拝堂。

 花冠院の大講堂。

 新しい花冠が編まれた広場。


 けれど彼は、壊れた花が保留されるこの小さな部屋を選んだ。


 机の上には保留箱。

 窓辺には記憶保留花。

 棚には古い第三修復室の札。


 私の始まりと、今の仕事がある場所。


 彼は王冠をかぶっていなかった。


 休眠用の花紐も、儀式用の外套もない。


 ただ、アシュレイ・リュミエールとして立っている。


「ミラ」


「はい」


 声が震えそうになる。


 リディア様も、イオも、ノア様もいない。


 完全な二人きりではない。扉の外には記録官がいる。本人同意と誓約保全のためだ。


 でも、この部屋の中で言葉を交わすのは二人だけだった。


 陛下は小さな箱を出した。


 中には、花冠ではなく、一本の糸が入っていた。


 白、青、灰色が混じった細い糸。


「婚約花冠を持ってこなかった」


 彼は言った。


「君の花冠を、私が用意して差し出すのは違うと思った」


 胸が熱くなる。


「これは」


「一緒に編むための最初の糸だ」


 彼は私をまっすぐ見る。


「私は、君を選びたい」


 以前、書庫で聞いた言葉。


 でも今は違う。


 仮婚約は解消されている。

 王妃選定は本人意思制度へ変わり、候補者たちはそれぞれの道を選び始めている。

 王の眠りは隠されていない。

 私の白い誓約花も、私自身のものとして記録されている。


 逃げ道がある。


 だから、選べる。


「王としてではなく、一人の男として、君に婚約を申し込みたい」


 声は静かだった。


 眠らない竜王の命令ではない。

 王国のための判断でもない。


 一人の人の願い。


「ただし、断れる」


 彼は続けた。


「今でなくてもいい。条件を出してもいい。主任修復師としての仕事を優先してもいい。王妃になるかどうかも、別に話し合う」


 言葉が多い。


 不器用で、慎重で、彼らしい。


 私は泣き笑いになった。


「求婚なのに、条件確認が多いです」


「重要だ」


「はい。とても」


 私は白い誓約花に触れた。


 花は静かに咲いている。


 誰かに咲かされたのではない。

 私が選んだ花。


「私も、あなたを選びたいです」


 アシュレイ様の目が揺れる。


 私は初めて、王ではなく名前だけで彼を呼んだ。


「アシュレイ様」


 彼は息を止めた。


「はい」


 少しおかしな返事だった。


 私は笑った。


「婚約を受けます。ただし、花冠は一緒に編みます。王妃になるかどうかは、私の仕事と制度上の役割を整理してから決めます。私は再読室主任修復師をやめません」


 彼は深く頷いた。


「もちろん」


「それから、眠りの記録を隠したら怒ります」


「分かっている」


「私の代償も隠しません」


「私が怒る」


 お互い様だ。


 でも、今度は笑える。


 私は箱の中の糸を取った。


 二人で机に向かい、小さな輪を作る。


 婚約花冠ではない。


 最初の糸。


 そこに私の白い誓約花の花粉を少し、彼の新しい花冠から落ちた夜明け竜胆の花粉を少し、保留糸を少し加えた。


 小さな輪が光る。


 扉の外で、記録官が静かに鐘を鳴らした。


 本人意思確認。

 相互同意。

 保留条件あり。


 なんとも私たちらしい婚約記録だった。


 アシュレイ様が私を見る。


「触れてもいいか」


 私は頷いた。


 彼の手が、私の手に触れる。


 眠りは奪わない。

 記憶も奪われない。


 ただ、温かい。


 その温かさだけで、私は十分すぎるほど泣きそうになった。


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