第117話 主任修復師
主任修復師の任命書を見た時、私は一度閉じた。
見なかったことにしようと思ったわけではない。
ただ、文字があまりにも自分のものに見えなかった。
ミラ・リース。
再読室主任修復師。
下級修復師だった私の名前の横に、主任という言葉がある。
リディア様は当然のように言った。
「受けてください」
「早すぎませんか」
「遅すぎます」
返す言葉がなかった。
花冠院暫定評議会では、リディア様を院長代行に推す声もあった。だが彼女は辞退し、評議制の維持を選んだ。
「一人の院長へ戻すには早い」
そう言った。
その代わり、各部門に主任を置き、記録官と外部監査を入れる。
再読室主任が、私。
責任が重い。
けれど、以前のように一人で背負う重さではない。
任命式は小さく行われた。
大講堂ではなく、再読室で。
パウル、ニナ、イオ、リディア様、カッサ、花冠院の若手たち、王宮記録官、フロレアの代表。
アシュレイ陛下も来た。
王としてではなく、再読室制度の最初の共同利用者として。
そういう名目だった。
セレスティア様は花束を持ってきた。
咲かない蕾の横に、最近増えた小さな葉がある。
「主任になったら、少しは自分を大事にする権限も増えるでしょう」
「権限でしょうか」
「義務です」
厳しい。
でもありがたい。
任命書を受け取る時、私は白い誓約花を胸に留めた。
この花は王妃適性の証ではない。
私の誓約花。
壊れた花を、続けられる形へ直すための花。
私は短い挨拶をした。
「再読室では、壊れた花をすぐ結論にしません。花が守ろうとしたもの、本人が選びたいもの、制度が押しつけたものを分けて読みます。修復師の力も、代償も、記録の外へ置きません」
言葉は震えた。
でも、最後まで言えた。
「そして、直すとは元へ戻すことだけではないと、この部屋の原則にします」
リディア様が泣きそうに笑った。
カッサは「ようやくまともな看板になったね」と言った。
イオは記録板に大きく頷きながら書いている。
任命式のあと、最初の相談者が来た。
若い夫婦だった。
婚姻花が二つに割れている。
昔なら、破談か不適格の判定になったかもしれない。
私は保留箱を出した。
「まず、お二人の話を聞きます」
主任になって最初の仕事は、特別な事件ではなかった。
壊れた花を前に、誰かの話を聞くこと。
それが一番ふさわしいと思った。
夕方、全ての相談が終わると、アシュレイ陛下が再読室の扉の前にいた。
「主任修復師」
わざとそう呼ぶ。
「何でしょう、陛下」
私も少し改まって返した。
彼は微笑んだ。
「明日、少し時間をもらえるか」
胸が跳ねた。
「制度の相談ですか」
「半分」
最近、彼は半分という言葉をよく使う。
「残り半分は」
「王としてではなく、一人の男として」
白い誓約花が、静かに揺れた。
私は息を吸う。
待つ時間が、終わりに近づいている気がした。
「はい」
主任修復師としての初日は、壊れた花と、少しだけ未来の予感で終わった。




