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第103話 母の痛み

 呪いの核の中では、時間が眠っていた。


 空はなく、地面もない。

 黒い花冠だけが浮かび、その内側にアシュレイ陛下が横たわっている。彼の周りには、王妃エリシア、先代王、兵士たち、無花者たち、フロレアの人々、候補者たちの記憶が花弁になって降っていた。


 私は一歩踏み出す。


 足元に白い糸が伸びている。


 リディア様の補助糸。

 カッサの保留糸。

 外の輪と私を繋ぐ道。


 黒い花冠の中心に、結び目があった。


 王家の竜紋。

 花冠院の封印糸。

 戦争の命令書。

 先代王の声。


 そのすべてが絡み合っている。


 ほどくには、核に触れる必要がある。


 触れれば、何かを求められる。


 私は分かっていた。


 黒い結びが、私の前に母の姿を作った。


 エリナ・リース。


 私の母。


 記憶の中より少し若く、少し疲れている。


「ミラ」


 声の最後が、やはり曖昧だった。


 私は泣きそうになる。


「お母さん」


 母は微笑む。


「痛いでしょう」


 その問いは、私の奥を正確に触れた。


 母を失った痛み。

 何も知らされなかった痛み。

 背負わされたと思っていた痛み。

 選べるように守られていたと知って、なお残る痛み。


「痛いです」


 私は答えた。


「でも、失いたくない」


「全部は失わなくていいの」


 母の姿は、黒い結びへ手を伸ばした。


「痛みは、記憶を守る棘でもある。でも棘が深く刺さりすぎると、花を抱けなくなる」


 胸が震える。


 私が差し出すべきものは、母の記憶ではない。


 母に置いていかれたと思い続けた痛み。


 母の選択を恨みかけた痛み。


 それを全部消すのではなく、一部を眠りの道へ流す。


「差し出したら、母を許したことになりますか」


 母は首を振った。


「許すかどうかは、急がなくていい。痛みを少し置くことと、許すことは同じではないわ」


 保留。


 ここでも、その言葉が私を支える。


 私は白い誓約花を胸から外し、黒い結びの前に置いた。


「母に置いていかれた痛みの一部を、ここへ」


 声が震える。


 白い花弁が一枚、薄く光った。


 胸の奥から、古い痛みが剥がれる。


 簡単ではない。


 剥がれた場所が、ひりひりする。


 でも、母の手の記憶は残った。

 母の名も残った。

 声の最後は曖昧なままだが、それを悲しむ私も残った。


 黒い結びが少し緩む。


 遠くで、外の輪の声が聞こえた。


 リディア様の声。

 イオの記録。

 トマの呼び声。

 セレスティア様の厳しい励まし。


 一人ではない。


 母の姿が薄れていく。


「ミラ」


 今度は、声の最後が少しだけ届いた。


 完全ではない。


 でも、私の名だった。


 私は泣きながら笑った。


「行ってきます」


 母は頷く。


 黒い花冠の奥で、アシュレイ陛下が眠っている。


 次は、彼を起こしに行かなければならない。


 私は痛みを一部置いた足で、眠りの中心へ進んだ。


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