第101話 失われた朝の名
夜が明けても、失われた記憶は戻らなかった。
王宮前広場には、花弁が積もっていた。
黒、白、青、灰色。
記憶を奪った花弁は、朝の光を受けるとただの薄い紙のように見える。けれど人々はそれを踏めなかった。
どの花弁に、誰の朝が入っているか分からないからだ。
アシュレイ陛下はまだ眠っている。
王宮の奥、かつて寝室だった部屋で。
十年ほとんど使われなかった寝台に、今は王が深く沈んでいる。呼吸は安定している。だが目覚めない。
私は白い誓約花を持って、広場に残った。
眠る王のそばにいたい気持ちはある。
でも、記憶を失った人々もここにいる。
リディア様が臨時記録所を開いた。
花冠院の机、商人の帳場、神殿の写経台、騎士団の野営机。あり合わせの机が広場に並び、人々が失ったものを書きに来る。
失われた朝の名。
それが最初の記録簿の題になった。
「母の作った蜂蜜菓子の味を忘れました」
「亡き夫のくしゃみの音を」
「初めて誓約花が咲いた時、誰といたのか」
「子どもの寝顔を見て思った言葉を」
小さな記憶ばかりだった。
だから重かった。
大きな歴史は書物に残る。
でも、小さな記憶は誰かの中にしかない。
私は一人一人の話を聞いた。
読まない。
触れない。
ただ、記録する。
今は修復より先に、失われた場所を確認する必要がある。
昼頃、トマが広場へ来た。
フロレアの人々と一緒に。
彼は空白の冠をかぶり、両手に布花を抱えている。
「王様、起きないの?」
「まだ」
私は答えた。
トマは少し考え、記録所の机へ布花を置いた。
「これ、忘れたことを書く花にして」
カッサが後ろで鼻を鳴らす。
「この子が言い出したんだよ。記憶が戻らないなら、戻る場所を作れって」
戻る場所。
保留箱と同じ考え方だ。
失った記憶を、空白のまま置ける場所。
リディア様はすぐに頷いた。
「記憶保留花を作りましょう。生きた誓約花ではなく、布花と記録紙を組み合わせる」
イオが目を輝かせる。
「失った記憶の名前を布花に書いて、本人が持てるように」
メイベルが商人たちへ紙と布の調達を指示し、フィオナが神殿の記録係を連れてきた。アリアナは広場の順番を整え、レティシアとクララは子どもたちへ書き方を教える。
セレスティア様は、貴族たちの列を見張っていた。
「身分順ではなく、来た順です」
抗議する伯爵に、彼女は涼しい顔で言う。
「忘れた朝に爵位はありません」
強い。
少し笑いそうになった。
夕方、最初の記憶保留花ができた。
布花の中心に、小さな紙片。
そこには、こう書かれていた。
母の蜂蜜菓子の甘さ。
それを受け取った老女は、花を胸に抱いて泣いた。
「思い出せないのに、ここにある」
私は頷いた。
「戻ったわけではありません。でも、失ったことを一人で抱えなくていいように」
老女は何度も礼を言った。
夜、王宮の奥から知らせが来た。
アシュレイ陛下はまだ目覚めない。
けれど、呼吸に夜明け竜胆の香りが混じり始めたという。
眠りは続いている。
記憶は戻らない。
それでも広場には、失われた朝の名が一つずつ花になっていく。
王国は、失ったものを隠さない朝を初めて迎えていた。




