第100話 記憶が降る夜
王が眠った夜、王宮には記憶が降った。
雨ではない。
花弁だった。
黒く、白く、青く、灰色に縁取られた花弁が、広場から王宮へ、王都の屋根へ、花冠院の温室へ、巡礼者の宿へ、静かに降り始めた。
花弁に触れた人は、一つずつ記憶を失った。
大きな記憶ではない。
朝の茶の香り。
初めて編んだ花紐の手順。
亡き人の笑い声の高さ。
幼い子が最初に書いた文字。
小さな記憶。
けれど、人をその人にしている記憶。
広場は混乱した。
泣く人、叫ぶ人、花を抱えて座り込む人。
それでも、誰も王へ石を投げなかった。
なぜなら、彼らは見ていたからだ。
王が隠さず眠りに落ちたことを。
眠りが王一人のものではなく、国全体の歪みから戻ってきたことを。
理解と恐怖は、同時に存在する。
私はアシュレイ陛下のそばで白い誓約花を支えていた。
彼は眠っている。
深く。
これまで奪われた眠りが、全部押し寄せているようだった。
リディア様が叫ぶ。
「保留糸の輪を広げて! 花弁を直接肌に触れさせないでください!」
カッサが広場の職人たちへ怒鳴る。
「布花でも空鉢でもいい、輪にしな! 眠りの通り道を作るんだよ!」
イオは泣きながら記録している。
ノア様は人々を避難させながら、何度も陛下の方を見た。
候補者たちも動いた。
アリアナは北方兵を統率し、広場の外周を守る。
メイベルは商人たちに布を集めさせる。
フィオナは神殿の祈りを記録の朗唱へ変え、人々に失いたくない名を声に出させる。
レティシアとクララは子どもたちを誘導し、ユリアは震えながらも従順花で人の列を整える。
エレナは喪花を掲げ、失われた人々の名を忘れないよう唱える。
セレスティア様は咲かない蕾を胸に、貴族院の者たちへ命じていた。
「見ている暇があるなら手を動かしなさい。これはあなた方が隠してきた記憶でもあります」
誰も反論できなかった。
王宮中の花が輪に編まれていく。
完全ではない。
穴だらけの輪だ。
それでも、眠りは少しずつ一人から外へ流れた。
私の白い誓約花にも花弁が降る。
母の声の最後。
すでに曖昧なその一音が、さらに遠くなる。
私は歯を食いしばった。
失いたくない。
でも、握りしめすぎれば眠りはまた陛下へ戻る。
母の声を、全部ではなく、痛みの一部だけ。
森で学んだように。
「お母さん」
私は声に出した。
母の名ではない。
私は母の名を、いつも心の中で呼んでいた。
その名を声に出すのが怖かった。
失えば、本当に失う気がして。
でも今、声に出さなければ花へ繋げない。
「エリナ・リース」
私の母の名。
白い誓約花が震えた。
母の声の最後は、少し遠くなった。
でも名前は残った。
痛みも残った。
私は泣きながら、花を支えた。
夜が更けるほど、記憶の花弁は増えた。
王宮のあちこちで、人々が失ったものを書き留め始める。
誰かが忘れた味を、別の誰かが覚えている。
誰かが失った笑い声を、隣の人が真似して残す。
誰かの花が欠けた場所へ、布花が結ばれる。
完全には戻らない。
それでも、全部を一人に奪わせない。
アシュレイ陛下は眠り続けた。
王宮全体から、記憶が少しずつ奪われていく。
けれど同時に、記憶を分け合う輪が生まれていた。
夜明けはまだ遠い。
私は白い花を抱き、眠る王のそばで朝を待った。




