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黄昏の衆生  作者: Ryukyou
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第2章 見知らぬ日常



 教室の一番後ろ。


 黒月は、窓から差し込む光をぼんやりと眺めていた。


 正確には、眺める以外に何をすればいいのか分からなかった。


 目の前には、整然と並んだ机と椅子。壁には見覚えのない紋章が飾られ、黒板には読めない文字がいくつも書き込まれている。その前では、教師が何事もなかったかのように授業を続けていた。


 教室にいる生徒たちも、特に変わった様子はない。


 教師の話に頷く者。ノートに何かを書き込む者。退屈そうに頬杖をついている者までいる。


 どう見ても、いつもどおりの授業風景だった。


 ただし、黒月を除けば、の話だが。


 彼は制服の袖をつまみ、そっと引っ張った。


 ……誰の服だ、これ。


 いや、今着ているのだから自分の服なのだろう。問題は、こんな制服を着た覚えがまったくないことだった。


 黒月は眉間にしわを寄せたまま、教室を見渡した。


 昨夜のことなら覚えている。


 遅くまで仕事をして、ようやく帰宅した。適当に腹を満たし、疲れた体を引きずってベッドに入った。眠りにつくまで、それほど時間はかからなかったはずだ。


 そこまでは間違いない。


 なのに、目を覚ましたら知らない学校にいた。


 しかも、周囲の人間は誰一人として、それを不思議に思っていない。


 黒月はこめかみを押さえた。


 ……夢、だよな?


 そう考えるのが一番簡単だった。


 疲れがたまっていたのだから、妙な夢を見たとしてもおかしくはない。そういうことにしておけば、少なくとも今すぐ頭を抱えずに済む。


 試しに頬でもつねってみようか。


 いや、待て。


 夢の中で頬をつねったら、ちゃんと痛いという話も聞いたことがある。


 そもそも、夢かどうかを確かめるために、わざわざ自分の頬をつねる必要があるのだろうか。


 ……まあ、いいか。


 黒月は結局、何もしなかった。


 代わりに、窓の外へ目を向ける。


 風に揺れる木々。石造りの建物。遠くを歩く生徒たち。


 どれも妙に鮮明だった。


 頬に触れる空気も、床から伝わる冷たさも、耳に届くチョークの音も、夢にしては生々しすぎる。


 教師が黒板に文字を書き足した。


 カッ、カッ、と乾いた音が響く。


「――この術式では、魔力の流れを均等に保つことが重要になる。特に、第三環の構成を誤ると、魔法陣全体の効率が大きく低下するからな」


 ……何を言っているんだ?


 黒月は教師の背中を見つめた。


 魔力。術式。魔法陣。


 聞いたことがあるような単語ばかりなのに、授業の内容はさっぱり理解できない。


 前の席の生徒が、教師の説明に合わせて熱心にノートを取っていた。その隣では、別の生徒が小声で何かを尋ね、二人で黒板を見比べている。


 ずいぶんと真面目なものだ。


 自分も学生時代に、これくらい勉強していればよかったのだろうか。


 ……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。


 黒月は小さく息を吐いた。


 現状を整理しよう。


 知らない場所。知らない制服。知らない授業。そして、知らない人間たち。


 これだけ条件がそろっているのだから、普通ならもっと慌ててもいいはずだ。


 ところが、実際のところ、彼はそれほど慌てていなかった。


 というより、何から慌てればいいのか分からなかった。


 目の前の状況をいくら考えても、答えが出る気配はない。ならば、今は余計なことをせず、周囲の様子をうかがうほうが賢明だろう。


 そう結論づけたところで、足の裏に鈍い痛みが走った。


「……っ」


 黒月はわずかに顔をしかめた。


 そういえば、ずっと立たされたままだった。


 教師に何か注意されたような気もするが、そこから先はよく覚えていない。とにかく、足が痛い。膝も少し重い。


 体重を反対側の足へ移し、こっそりと膝を伸ばす。


 早く終わってくれないだろうか。


 せめて座らせてほしい。


 そんなことを考えていた、そのときだった。


 ――ポーン。


 澄んだ音が教室に響き渡った。


 黒月は反射的に顔を上げた。


 教壇の脇に、小さな球体が浮かんでいる。淡い光を放つそれは、まるで何かの合図を待っていたかのように、音の余韻を残して静止していた。


 次の瞬間、教室のあちこちから声が上がった。


「やっと終わった……」


「腹減ったー!」


「今日の課題、思ったより簡単だったな」


 椅子が引かれ、机の上で筆記具が片づけられる。さっきまで静かだった教室が、あっという間に騒がしくなった。


 黒月は球体と生徒たちを交互に見た。


 ……あれが終了の合図か。


 なるほど。


 いや、なるほどと言われても、何も分かっていないのだが。


「今日はみんな、よくできていたな」


 教師は教材をまとめながら、教室を見渡した。


「提出された課題は、あとで確認しておく。次回までに復習しておくように。特に――」


 そこで、教師の視線が後方へ向いた。


「黒月。次はきちんと準備してくるように」


「……はい」


 返事をしてから、黒月は口を閉じた。


 今、確かに自分の名前を呼ばれた。


 しかも、課題を忘れた生徒に向けるような口調だった。


 どうやら、ここでは自分は課題を忘れることで有名らしい。


 ……初日からずいぶんな評価を受けているものだ。


 もちろん、本人には何の心当たりもない。


 そもそも、何の課題なのかすら分からないのだから、反省のしようがなかった。


 教師はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。


 扉が閉まると、黒月はようやく肩の力を抜いた。


 とりあえず、説教は免れたらしい。


 もっとも、次回までに課題を提出しろと言われても困るのだが。


 黒月は教室の中を見渡した。


 生徒たちはそれぞれ友人と話しながら、次々と席を立っている。窓際では女子生徒たちが笑い合い、前のほうでは男子生徒が何かを巡って言い争っていた。


 あまりにも普通の光景だった。


 ここが自分の知らない場所だという事実だけが、どうにも浮いている。


 さて、どうしたものか。


 このまま教室に残っていても仕方がない。ひとまず外へ出て、何か情報を集めるべきだろう。


 そう考え、一歩踏み出しかけた瞬間だった。


「おい、黒月!」


「うわっ!?」


 突然、後ろから腕を回され、黒月の肩がびくりと跳ねた。


 危うく前につんのめりそうになり、慌てて足を踏み出す。


「な、何だよ!?」


「何だよって、こっちの台詞だろ!」


 耳元で、遠慮のない声が笑った。


 振り返ると、同年代くらいの男子生徒が立っていた。気取ったところのない顔立ちで、黒月の肩に腕を回したまま、こちらを面白そうに眺めている。


「今日の授業、全然分かってなかっただろ? また居眠りでもしてたのか?」


「……いや、ちょっと考え事をしてただけだ」


「へえ。考え事ねえ」


 男子生徒は顔を近づけてきた。


 黒月は反射的に上体を引いた。


 近い。


 初対面の人間に、こんな距離まで近づかれることはそうそうない。


 もっとも、向こうにとっては初対面ではないのだろうが。


「なんか今日、いつもと違うな」


「そうか?」


「そうだよ。いつもなら、もっと露骨に面倒くさそうな顔してるぞ」


「おい、それはどういう意味だ」


 思わず言い返した。


 男子生徒は一瞬きょとんとしたあと、声を立てて笑った。


「ははっ! いや、悪い悪い。そういうところはいつもどおりだな!」


「……お前な」


 黒月は額に手を当てた。


 調子のいいやつだ。


 だが、妙なことに、会話そのものにはそれほど困らなかった。相手の言葉に合わせて返事をしているうちに、少しだけ緊張がほぐれていく。


 知らない場所にいるという事実は変わらない。


 それでも、目の前の少年が自分を警戒していないことだけは分かった。


 男子生徒は黒月の肩を叩き、ふと思い出したように胸を張った。


「そういえば、俺の名前まで忘れてないだろうな? シュレンだぞ、シュレン!」


「……ああ、もちろん」


 黒月は間を置かずに答えた。


 もちろん、知るはずもない。


「本当かあ?」


 シュレンが目を細める。


「昨日も一昨日も一緒にいたんだからな。今さら忘れたなんて言うなよ?」


「忘れるわけないだろ」


「よし。なら問題ないな!」


 あっさりと納得したシュレンは、黒月の肩から腕を外した。


 どうやら、深く考える性格ではないらしい。


 黒月は内心で胸をなで下ろした。


 助かった。


 もし、ここで本当に知らないと言っていたら、どうなっていたことか。


「それより、飯に行こうぜ!」


 シュレンは廊下のほうを指さした。


「もう腹ペコなんだよ。さっきから腹が鳴りそうで仕方ない」


「……それは大変だな」


「他人事みたいに言うな! お前だって腹減ってるだろ?」


 そう言われて、黒月は初めて自分の空腹を意識した。


 確かに、腹が減っている。


 昨夜はインスタント麺を食べただけだったし、朝食を取った記憶もない。


 いや、そもそも朝があったのかどうかすら、今となっては怪しい。


 黒月は小さく首を振った。


 考え始めると、また面倒なことになりそうだった。


「……分かった。行こう」


「よし、決まり!」


 シュレンは満足そうに頷くと、今度は黒月の腕をつかんだ。


「ちょ、ちょっと待て。自分で歩けるから!」


「いいから、早く!」


「おい!」


 黒月は半ば引きずられるようにして、教室を後にした。


     *


 廊下に出ると、教室の中とは比べものにならないほど多くの生徒が行き交っていた。


 窓際で話し込む女子生徒。壁にもたれて本を読む男子生徒。友人を見つけて駆け寄る者もいれば、何かに遅れそうなのか、足早に通り過ぎていく者もいる。


 昼休みというものは、どこの世界でも似たようなものらしい。


 黒月はそんなことを考えながら、シュレンの後を追っていた。


 もっとも、周囲の景色は似ているどころか、見たこともないものばかりだったが。


 高い天井を支える石柱。壁に刻まれた複雑な紋様。窓の向こうに見える広い中庭。


 ここが学校だということは分かる。


 しかし、どこの学校なのかと聞かれれば、答えようがなかった。


「だから、もう一回やってみろって!」


「分かってるよ! 今度こそ成功するからな!」


 廊下の先から、そんな声が聞こえてきた。


 何事かと思って顔を向けると、数人の男子生徒が輪になって何かを囲んでいた。


 その中心にいる少年は、腕に一匹の猫を抱えている。


「よし、いくぞ!」


 少年がそう声をかけると、猫は面倒くさそうに片目を開いた。


 次の瞬間。


 ぼっ、と小さな炎が猫の口から吐き出された。


「おおっ!」


「すげえ!」


「ちょっと待て! こっちに向けるな! 髭が焦げるだろ!」


 歓声と悲鳴が入り混じる。


 炎は空中で揺らめいたあと、あっけなく消えた。


 猫は何事もなかったかのように欠伸をしている。


 その様子を見て、黒月は足を止めた。


 ……今、何が起きた?


 目をこすり、もう一度見た。


 猫は普通の猫だった。少なくとも、外見だけならそう見える。


 だが、ついさっき、その口から炎が出た。


 見間違いではない。


 周囲の少年たちも大騒ぎしているのだから、気のせいというわけでもなさそうだ。


「大丈夫だって! こいつ、火加減はちゃんと分かってるから!」


 猫の飼い主らしい少年が、自慢げに胸を張る。


 当の猫は、主人の腕の中で再び目を閉じた。


 黒月はしばらく、その光景を見つめていた。


 ……猫が火を吐く世界か。


 なるほど。


 いや、待て。


 そんなことで納得していいのだろうか。


「おーい、黒月! 何やってんだ?」


 少し先からシュレンの声が飛んできた。


「あ、ああ。悪い!」


 黒月は慌てて追いついた。


「今の猫、見たか?」


「猫? ああ、あいつか」


 シュレンはちらりと後ろを振り返った。


「最近よく見かけるぞ。飼い主がやたら自慢したがるんだよな」


「……よく見かける?」


「そりゃ、あれだけ派手なら目立つだろ。まあ、あんなに火を吐けるなら、自慢したくなる気持ちも分からなくはないけどさ」


 シュレンは肩をすくめた。


 黒月は思わず口を開きかけた。


 いや、火を吐く猫が珍しくないというのは、どういうことなのだろう。


 そもそも、猫は火を吐く生き物だっただろうか。


 少なくとも、黒月の知っている世界では違ったはずだ。


 ……いや、もういい。


 この世界の常識について考え始めたら、きりがない。


 黒月は頭の中で、今見たばかりの光景を無理やり脇へ追いやった。


 そのとき、隣を歩いていたシュレンが、ふとこちらを覗き込んできた。


「ところで、お前、本当に大丈夫か?」


「ん?」


「さっきから、やたらと周りを見てるだろ」


 黒月の足が、一瞬だけ止まった。


 しまった。


 自分ではなるべく普段どおりに振る舞っているつもりだったが、どうやらそうでもなかったらしい。


「……別に。ちょっと眠いだけだ」


「眠い?」


「そう。寝不足なんだよ」


「授業中も眠そうだったのに、まだ眠いのか?」


「人間、眠いときは眠いんだ」


「開き直るな!」


 シュレンは呆れたように声を上げた。


 黒月は肩をすくめた。


 どうやら、うまくごまかせたらしい。


 もっとも、相手が疑っていないかどうかまでは分からないが。


「まあ、いいけどさ」


 シュレンは前を向き直った。


「無理して倒れたりするなよ。運ぶの、面倒だから」


「心配してるのか、してないのか、どっちなんだよ……」


「両方!」


 即答だった。


 黒月は思わず吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。


 少なくとも、退屈する相手ではなさそうだ。


 そんなことを考えながら歩いていると、廊下の向こうに中庭が見えてきた。


 シュレンが不意に進路を変える。


「こっちだ。近道だから」


「近道って……食堂に行くんじゃなかったのか?」


「行くよ。ここを通ったほうが早いんだ」


 そう言いながら、シュレンは中庭へ続く通路を進んでいった。


 黒月もその後に続く。


 そして、通路を抜けた瞬間、自然と足が緩んだ。


 広々とした中庭の中央に、大きな石造りの台座が据えられていた。


 その上には、一人の男の像が立っている。


 片手には剣。背筋はまっすぐに伸び、視線は遠くを見据えていた。風を受けて翻る衣服まで細かく彫り込まれており、今にも動き出しそうなほどの迫力がある。


 陽光が石像の輪郭をなぞり、掲げられた剣の先を白く照らしていた。


 ただ大きいだけではない。


 そこには、見る者の目を引きつける何かがあった。


「……なんだ、あれ」


 黒月は思わず呟いた。


 シュレンも立ち止まり、彼の視線を追った。


「ああ、あの像か?」


「ずいぶん立派だな」


「だろ? 最近建てられたばかりなんだ」


「最近?」


 黒月は像を見上げたまま、首を傾げた。


 これほど大きなものが建てられたのなら、嫌でも目につきそうなものだ。


 だが、まったく覚えがない。


 ……いや、そもそも自分は、ここを通ったことがあるのだろうか。


「……どうして、俺は知らないんだ?」


 何気なく口にした言葉だった。


 しかし、シュレンは不思議そうに眉を寄せた。


「どうしてって、お前、毎日ここを通ってるだろ?」


「……そうなのか?」


「おいおい、冗談だろ?」


 シュレンは黒月の顔を覗き込んだ。


「まさか、本当に忘れたわけじゃないよな?」


「いや、そういうわけじゃ……」


 言いかけて、黒月は口をつぐんだ。


 ここで余計なことを言うのは危険だ。


 何をどこまで覚えていないのか、自分でも把握できていない。下手に取り繕おうとすれば、かえって不自然になるだろう。


「……ちょっと、ぼんやりしてただけだ」


「ふうん?」


 シュレンはまだ納得していないようだったが、やがて頭を掻いた。


「まあ、お前、昔から周りのことをあんまり気にしないからな。見てるようで、見てないっていうか」


「それ、褒めてないだろ」


「褒めてないよ?」


「少しは否定しろ!」


 いつもの調子で言い返したものの、黒月の視線はすでにシュレンから離れていた。


 なぜだろう。


 どうしても、像から目をそらせない。


 知らない人物のはずだった。


 初めて見る顔のはずだった。


 それなのに、胸の奥が妙にざわついている。


 まるで、ずっと忘れていた何かを、あと少しで思い出せそうな――。


「……この人、誰なんだ?」


 その瞬間、シュレンの表情が変わった。


 先ほどまでの気安い笑みが消え、代わりに、どこか誇らしげな色が浮かぶ。


「この方は、ユラギ・シオン様だよ」


 その名を口にするとき、シュレンの声には自然と敬意がこもっていた。


「シオン様がいたからこそ、俺たちは今、こうして暮らしていられるんだ」


 ユラギ・シオン。


 その名前が耳に届いた。


 次の瞬間。


 ――何かが、頭の奥を走り抜けた。


「……っ!」


 黒月の呼吸が止まった。


 視界が揺れる。


 いや、揺れたのは景色ではない。


 目の前の中庭に、別の風景が重なっていた。


 赤い。


 川が、赤く染まっている。


 水面を覆う色は、夕焼けの反射などではなかった。川岸の向こうまで続く異様な赤が、視界いっぱいに広がっている。


 その先に、巨大な影があった。


 竜。


 そう思った瞬間、その輪郭が視界を埋め尽くした。


 あまりにも大きい。


 どれほど離れているのかさえ分からない。見上げても、その全貌を捉えきれないような巨体が、赤い川の向こうにそびえていた。


 そして――。


「……っ、は……」


 黒月は額を押さえた。


 息がうまく吸えない。


 何だ、今のは。


 どこで見た?


 いつの記憶だ?


 考えようとした途端、こめかみの奥に鈍い痛みが走った。


 視界の端が暗くなる。


 足元の感覚が遠のき、体が傾いた。


「おい、黒月!」


 シュレンの声が聞こえた。


 次の瞬間、腕をつかまれた。


 黒月は反射的に相手の袖を握りしめた。指先に力が入り、布地がくしゃりと歪む。


 膝が石畳に触れる寸前で、どうにか踏みとどまった。


「おい、しっかりしろ! どうしたんだよ!?」


「……だい、じょうぶ……」


 声がかすれた。


 自分でも驚くほど、息が乱れている。


 シュレンは黒月の腕を支えたまま、顔を覗き込んだ。


「大丈夫なわけないだろ! 急にどうしたんだ? 頭が痛いのか?」


「いや……ちょっと……」


 黒月は言葉を探した。


 しかし、何を説明すればいいのか分からない。


 赤い川。


 巨大な竜。


 それだけは、確かに見えた。


 けれど、なぜそんな光景が頭に浮かんだのか、まったく見当がつかなかった。


 今の自分は、知らない学校にいる。


 それなのに、目の前の像を見て、あんな景色を思い出した。


 ……思い出した?


 そもそも、あれは本当に記憶なのだろうか。


 夢の残りなのか。それとも、単なる幻なのか。


 答えを探そうとするほど、頭の中がまとまらなくなっていく。


 黒月は一度、強く目を閉じた。


 ゆっくり息を吸う。


 吐く。


 もう一度、吸う。


 少しずつ、足元の感覚が戻ってきた。


「……悪い。ちょっと立ちくらみがしただけだ」


 ようやくそう言うと、シュレンは眉をひそめた。


「立ちくらみ? 急に?」


「たぶん、寝不足だろ」


「お前、さっきも眠いって言ってたよな……」


 シュレンの声から、からかうような響きが消えていた。


 彼は黒月の腕を離さず、顔色を確かめるようにじっと見つめている。


「本当に歩けるか? 先生を呼んだほうがいいんじゃないか?」


「いや、そこまではいい。もう落ち着いたから」


 黒月はゆっくりと体を起こした。


 まだ膝にわずかな震えが残っていたが、何とか自分の足で立つことはできた。


 シュレンはすぐには手を離さなかった。


「……本当だな?」


「本当だよ」


「何かあったら、ちゃんと言えよ。変に我慢されるほうが困るんだからな」


 黒月は一瞬、返事に詰まった。


 知らないはずの自分を、ここまで心配してくれる。


 そのことに、少しだけ申し訳なさを感じた。


「……分かった。ありがとな」


 そう答えると、シュレンはわずかに目を丸くした。


「お、おう。別にいいけど……」


 何か言いかけて、結局、口を閉じる。


 それから小さく息を吐いた。


「とにかく、今日は無理するなよ」


「ああ」


 黒月は短く頷いた。


 これ以上、心配をかけるわけにはいかない。


 それに、いつまでもここに立っているわけにもいかなかった。


「……それより、飯に行こう。腹が減った」


「お前なあ……」


 シュレンは呆れたように肩を落とした。


「さっきまで倒れそうだったやつの台詞じゃないだろ、それ」


「腹が減るのと体調は別問題だ」


「そんな理屈があるか!」


 声を上げたあと、シュレンはとうとう吹き出した。


 黒月もつられて、ほんの少しだけ口元を緩める。


 さっきまでの緊張が、わずかにほどけた。


「……ほら、行くぞ」


 シュレンが歩き出す。


 黒月もその隣に並んだ。


 ただ、数歩進んだところで、思わず振り返ってしまった。


 石像は変わらず、静かに中庭を見下ろしていた。


 掲げられた剣に、午後の光が当たっている。


 ユラギ・シオン。


 その名前を、もう一度、心の中で繰り返した。


 何も思い出せない。


 それなのに、あの赤い川と竜の姿だけが、頭の片隅に焼きついて離れなかった。


 黒月はしばらく像を見つめたあと、今度こそ視線を戻した。


 今はまだ、何も分からない。


 ならば、ひとまず目の前のことから片づけるしかないだろう。


 まずは昼飯だ。


 ……我ながら、ずいぶんと現実的な結論だった。


     *


 食堂に近づくにつれて、人の声が大きくなっていった。


 笑い声に混じって、食器の触れ合う音や、誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。


 扉をくぐった瞬間、黒月は思わず足を緩めた。


「……広いな」


 天井は高く、磨かれた石の床には窓からの光が差し込んでいる。室内には数え切れないほどの机と椅子が並び、あちこちの席で生徒たちが食事を楽しんでいた。


 食堂というより、どこかの大きな屋敷の広間に近い。


 少なくとも、黒月が知っている学校の食堂とは規模が違った。


 もっとも、驚くのはそれだけではなかった。


 各テーブルの中央には、奇妙な円形の紋様が刻まれていた。


 幾重にも重なった線。その間を埋める、文字のような記号。


 どのテーブルにも、同じ紋様がある。


 黒月は近くのテーブルを覗き込んだ。


 線は細く、丁寧に刻まれている。装飾にしては複雑すぎるし、落書きにしては整いすぎていた。


 ……何に使うんだ、これ。


 食堂を見渡しても、料理を配っている店員らしい姿は見当たらない。


 それなのに、生徒たちは当たり前のように食事をしている。


 料理はどこから運ばれてくるのだろう。


 まさか、自分で厨房まで取りに行くのだろうか。


「おーい、黒月!」


 先に進んでいたシュレンが振り返った。


「いつまで入口にいるんだよ! 席がなくなるぞ!」


「ああ、今行く!」


 黒月は慌てて歩き出した。


 今は余計なことを考えず、まずは食事にありつこう。


 空腹のせいか、さっきから頭がうまく働いていない気がする。


 ……いや、空腹だけの問題ではないのだろうが。


 シュレンは空いている席を見つけると、椅子を引いて腰を下ろした。


「ここでいいな。ほら、座れよ」


「分かった」


 黒月も向かいの席に座った。


 目の前には、先ほど廊下で見たものと同じ円形の紋様が刻まれている。


 指先でなぞってみたい気もしたが、初めて見るものを不用意にいじるのはやめておいた。


 その間に、シュレンは慣れた様子でテーブルに手を伸ばした。


 指先が紋様の中央に触れる。


 淡い光が、円の内側に灯った。


「……お?」


 黒月は思わず身を乗り出した。


 紋様を構成する線が、ゆっくりと回転し始める。光が円の中心へと集まり、やがて小さな輝きとなって弾けた。


 次の瞬間。


 机の上に、食事の載った盆が現れた。


「よし、今日はこれにするか」


 シュレンは何の驚きも見せず、盆を自分の前に引き寄せた。


 黒月は、口を半開きにしたまま固まっていた。


 ……今、何が起きた?


 何もなかった場所に、突然、食事が出てきた。


 しかも、目の前の少年は、それを当たり前のように受け入れている。


「……おい、シュレン」


「ん?」


「今の、どうやったんだ?」


「どうって、魔法陣に触れただけだけど?」


「触れただけで?」


「そうだけど……」


 シュレンは不思議そうに首を傾げた。


「何だよ。まさか、これまで毎日使ってたのに忘れたのか?」


「い、いや。そういうわけじゃ……」


 黒月は言葉を濁した。


 どうやら、また妙なことを口にしてしまったらしい。


 シュレンはしばらく不思議そうにしていたが、すぐに食事へと意識を戻した。


「まあ、いいや。お前も早く出せよ。冷めるぞ」


「……ああ」


 黒月は目の前の紋様を見つめた。


 触れるだけで料理が出てくる。


 便利すぎるだろう。


 自分の世界にも、これくらい便利なものがあればよかったのに。


 仕事から帰って、疲れた体で食事を用意する必要もない。食材を買いに行く手間も省ける。何より、腹が減ったときにすぐ食べられる。


 ……いや、待て。


 この世界にも食材や料理人というものはあるのだろうか。


 魔法で何でも用意できるのなら、わざわざ料理を作る意味がなくなるのではないか。


 そこまで考えたところで、黒月は首を振った。


 今はそんなことを考えている場合ではない。


 彼はそっと、魔法陣の中央に手を置いた。


 何か呪文を唱えるのだろうか。


 魔力を込める必要があるのだろうか。


 シュレンの動作を思い返しながら、少しだけ指先に力を入れてみる。


 すると、魔法陣が淡く光り始めた。


「おっ……!」


 黒月は慌てて手を引きかけたが、すぐに思いとどまった。


 光はゆっくりと広がり、幾重にも重なった線が回転する。


 そして――。


 ぽん、と軽い音がした。


 目の前に、盆が現れた。


 湯気の立つ料理。器に盛られたおかず。温かな香り。


 黒月はしばらく、それを見下ろしていた。


「……本当に出てきた」


「だから、そういう魔法陣なんだって」


 シュレンは箸を持ったまま、呆れたように言った。


「お前、今日はどうしちまったんだよ?」


「いや……ちょっと、寝不足でな」


「便利な言葉だな、それ」


「使い勝手がいいんだよ」


「自慢するな!」


 シュレンが笑い、黒月も苦笑した。


 何とか話をそらせたらしい。


 ただ、目の前の料理を見ていると、今度は別の問題が浮かんできた。


 ……これ、どうやって食べるんだ?


 いや、料理なのだから食べればいい。


 そうではなく、味付けや食材が自分の知っているものと同じなのか、という話だ。


 とはいえ、今さら食べずに眺めていても仕方がない。


 黒月は箸を手に取り、湯気の立つ料理を口へ運んだ。


「……うん」


 思ったより、ずっとおいしかった。


 温かな味が口いっぱいに広がり、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩む。


 その瞬間、自分が思っていた以上に空腹だったことに気づいた。


 そういえば、昨夜はインスタント麺を食べただけだった。


 まさか、その翌日に知らない世界で魔法の授業を受け、火を吐く猫を見て、魔法陣から出てきた昼食を食べることになるとは。


 人生、何が起こるか分からないものだ。


 黒月はもう一口、料理を口に運んだ。


 向かいでは、シュレンがすでに食事を半分ほど平らげていた。


「そういえばさ、次の授業なんだけど――」


 彼は食べる手を止めず、今日の授業について話し始めた。


 黒月は相槌を打ちながら、少しずつ食事を進めた。


 話の内容は相変わらずよく分からない。それでも、適当に頷いているうちに、シュレンが何を面白がっているのかくらいは伝わってきた。


 こうして誰かと向かい合って食事をしていると、少しだけ落ち着く。


 知らない場所にいることも、理解できない魔法も、すぐに答えが出るわけではない。


 それでも、目の前の食事は温かいし、シュレンはよく喋る。周囲の生徒たちも、それぞれの昼休みを楽しんでいる。


 世界が変わっても、腹は減る。


 人は食事をし、友人と話し、明日の予定を気にする。


 そんな当たり前のことが、今の黒月には妙にありがたく思えた。


 ……もっとも、明日の授業については、できれば考えたくなかったが。


 黒月は箸を動かしながら、ちらりと窓の外へ目を向けた。


 遠くに、中庭の一角が見える。


 あの石像は、ここからでは見えなかった。


 けれど、頭の片隅にはまだ、あの名前が残っている。


 ユラギ・シオン。


 赤く染まった川。


 巨大な竜。


 思い出そうとすると、頭の奥がわずかに重くなる。


 黒月は箸を止めた。


「……黒月?」


 シュレンに呼ばれ、はっと顔を上げる。


「何だ?」


「いや、今、話聞いてなかっただろ」


「……悪い。ちょっと考え事をしてた」


「またかよ!」


 シュレンは大げさに肩を落とした。


「せっかく面白い話をしてやってるのに!」


「それは悪かったな」


「まったくだ。あとでちゃんと聞かせてやるからな!」


「まだ話す気なのか……」


「当たり前だろ!」


 シュレンは得意げに笑った。


 黒月は今度こそ、小さく吹き出した。


 さっきまで頭を占めていた不安が、ほんの少しだけ遠のいた気がした。


 もちろん、何も解決してはいない。


 自分がどこにいるのかも、なぜここにいるのかも分からないままだ。


 それでも、今すぐすべてを理解する必要はないのかもしれない。


 まずは、この世界のことを知る。


 それから、自分が何者なのかを確かめる。


 焦っても仕方がない。


 黒月は目の前の料理をもう一口食べた。


 ……まあ、できれば明日の課題くらいは、何とかしたいところだが。


 食堂には、相変わらず大勢の生徒たちの声が響いていた。


 笑い声も、食器の音も、誰かを呼ぶ声も途切れない。


 そんな賑やかな日常の中で、黒月は少しずつ、この見知らぬ世界の空気に馴染み始めていた。


 ただし、その胸の奥に生まれた小さな違和感だけは、まだ消えずに残っていた。

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