第1章 天命
川の水面が、穏やかに揺れていた。
木々の葉が風にそよぎ、陽の光が水面に反射してきらきらと輝いている。川辺では、三人の若者が釣りを楽しんでいた。
「おーい、シオン! 遅いぞ!」
仲間の一人が振り返り、ようやくやって来た青年に声をかけた。
「悪い悪い。餌の準備に手間取ってさ」
ユラギ・シオンは悪びれる様子もなく笑いながら、二人のそばへ歩いていった。
「まったく、お前はいつもそうだな。そんな調子じゃ、魚が全部逃げちまうぞ」
「ははっ、そんなに急がなくても大丈夫だろ」
「そういえば、お前、自分の馬車をなくしたんだって?」
もう一人が思い出したように尋ねた。
「おいおい、いきなりその話かよ」
シオンは苦笑したものの、特に気にしている様子はなかった。
「まあ、別にいいさ。また稼いで買えばいいだけだし」
「お前、本当に気楽なやつだな……」
呆れたような声に、シオンは楽しそうに笑った。
何の変哲もない、穏やかな一日。
少なくとも、そのときの彼らは、そう思っていた。
だが、やがて日が沈み、辺りが暗闇に包まれ始めた頃。
川の水面に、異変が起きた。
先ほどまで澄んでいた水が、ゆっくりと赤く染まっていく。
最初は夕日の色が映っているだけかと思った。しかし、空にはもう太陽の姿などない。それなのに、赤色は薄れるどころか、川全体へと広がっていった。
「……おい。何だ、これ?」
誰かが呟いた。
その直後、地面が大きく揺れた。
足元に亀裂が走り、乾いた音とともに大地が裂けていく。逃げようとした者たちの目の前で、地面から何かが飛び出した。
それは、剣だった。
無数の剣がシオンの身体を貫き、彼をその場に縫い止める。
「ぐっ……!」
シオンは膝をついた。
何が起きたのか、理解する暇さえなかった。身体に力が入らない。目の前の光景が、まるで現実ではないかのように感じられた。
「シオン……?」
仲間の一人が、震える手を伸ばした。
だが、その手が彼に届くことはなかった。
「嫌だ……! ユラギ・シオン!」
悲痛な叫びが、暗闇に響き渡った。
次の瞬間、川の奥から巨大な影が姿を現した。
それは、あまりにも巨大だった。
水面を押し分け、天へと昇っていく長大な身体。鋭い爪、巨大な翼、そして夜空を睨みつける恐ろしい眼。その姿は、まるで世界そのものを覆い尽くそうとしているかのようだった。
巨大な龍が、空を支配する。
その存在を前にすれば、人間などあまりにも小さく、無力だった。
周囲の地面が次々と崩れ、遠くの景色まで歪んでいく。大地のあちこちに光の柱が立ち上り、暗い空を貫いた。
もはや、先ほどまでの穏やかな風景はどこにも残っていなかった。
その光景を見下ろしながら、巨大な龍――Chung Viên Hoàng Đếは、人間たちに問いかけた。
「なぜだ?」
その声は、地の底から響いてくるかのようだった。
「なぜ人間は、こうも互いを傷つけ合う? なぜ我と手を取り合おうとしない?」
龍の眼が、地上の人間たちを見渡す。
「我と共に世界を支配すればいい。それだけのことだ。なぜ、それを拒む?」
その問いに答える者は、ほとんどいなかった。
恐怖に震える者。倒れたまま動けない者。そして、目の前の現実を受け入れられず、ただ立ち尽くす者。
その中で、一人の女性が歩み出た。
彼女の身体は震えていた。目には涙が浮かび、頬を伝って落ちていく。
それでも、彼女は足を止めなかった。
やがて、女性は魔法陣の前にたどり着く。
その腕の中には、小さな赤ん坊がいた。
女性は赤ん坊をそっと地面に寝かせると、震える声で語りかけた。
「……ごめんね」
涙が、赤ん坊のそばに落ちた。
「でも、あなたには生きていてほしいの」
女性は小さな身体に手を伸ばし、最後にもう一度だけ、その顔を見つめた。
「お願いだから……どうか、幸せに生きて」
魔法陣が淡い光を放ち始める。
女性は唇を噛みしめ、涙をこらえながら告げた。
「あなたは、生きなきゃいけないの……!」
光が赤ん坊を包み込んだ。
そして、その小さな姿は、光の中へと消えていった。
それを見た龍が、低く笑う。
「くだらん」
巨大な眼が、女性を見下ろした。
「そんな小さな命を逃がしたところで、何になる? その子に何ができるというのだ?」
女性は顔を上げた。
涙で濡れた頬。それでも、その瞳には確かな意志が宿っていた。
「私は……私の愛する人を裏切ったりしない」
声は震えていた。それでも、彼女は言葉を続けた。
「この子には、生きていてほしい。あの人が守ろうとしたものを、この子にも見てほしいの」
龍は鼻で笑った。
「その子に、何ができる?」
女性は、まっすぐに龍を見据えた。
「だって……」
彼女は涙を拭い、はっきりと言い放った。
「この子こそが、天命なのだから!」
その声が響き渡る。
そして、光はすべてを飲み込み、やがて静寂が訪れた。
*
夜十時。
街の一角にあるスーパーマーケットは、まだ明るい光に包まれていた。
店内には買い物客が絶えず行き交い、商品を手に取ってはカゴに入れていく。
そのレジカウンターで、一人の青年が頬杖をついていた。
クロツキ。
このスーパーで働く従業員であり、同時にこの職場の被害者でもある男だ。
「……」
クロツキはぼんやりと店内を眺めた。
客はまだ大勢いる。
時計に目を向けると、針は午後十時を指していた。
「……いや、もう十時だぞ?」
思わず呟く。
「みんな眠くないのか? こんな時間まで買い物して……」
もちろん、客たちが彼の呟きに耳を貸すことはない。
そもそも、聞こえたところで困るような話でもない。
クロツキは小さくため息をつき、再び頬杖をついた。
早く帰りたい。
ただ、それだけだった。
客がレジにやって来ると、クロツキはすぐに姿勢を正した。
「いらっしゃいませ」
商品を一つずつ読み取り、合計金額を伝え、代金を受け取る。レシートを渡して、次の客を待つ。
客が来れば対応する。
いなくなれば、ぼんやりする。
そしてまた客が来る。
そんなことを繰り返しているうちに、時計の針は少しずつ進んでいった。
やがて、午後十一時。
ようやく最後の客が店を出ていった。
クロツキは店内を見回し、誰もいないことを確認する。
「……よし。やっと帰れる」
今日も長かった。
そう思った矢先、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、クロツキの表情が露骨に曇る。
「……店長かよ」
出たくない。
できることなら、そのまま無視して帰りたい。
しかし、無視したところで後が面倒になるのは目に見えていた。
クロツキは諦めて通話ボタンを押した。
「もしもし」
『おう、クロツキ。今日もお疲れ』
「お疲れさまです。それで、何かありました?」
『いや、今日の売上目標はちゃんと達成できてたぞ。よくやってくれたな』
「そうですか。よかったです」
そこまでは普通だった。
だが、電話の向こうの店長は、そこで妙な間を置いた。
『……それでな』
「はい?」
『今月の給料なんだが、ちょっと支払いが遅れそうなんだ。悪いな。少しだけ待ってもらってもいいか?』
クロツキは黙った。
ほんの数秒、何も言わずに天井を見上げる。
そして、ようやく口を開いた。
「……ああ、問題ないですよ。問題ないです」
『お、本当か?』
「ええ。まあ、ちゃんと給料をもらえるなら」
『そうかそうか! いやあ、クロツキみたいな従業員がいてくれて助かるよ!』
店長は妙に嬉しそうだった。
クロツキは適当に相槌を打ち、通話を終えた。
「…………」
スマートフォンを見つめる。
給料が遅れる。
今月も。
「……はぁ」
ため息が一つ、こぼれた。
問題ないと言ったのは自分だ。
だが、問題がないわけではない。
そんなことを考えても、給料が早く振り込まれるわけではなかった。
クロツキはスマートフォンをポケットにしまい、周囲を見回した。
もう客はいない。
店内も静かになっている。
「……帰ろ」
彼はようやく仕事を終えることにした。
従業員用の制服を脱ぎ、ロッカーにしまう。その下には、いつも着ている普段着があった。
着替えを済ませると、店内の照明を落とし、出入口を閉める。
鍵をかけたことを確認してから、クロツキは夜の街へと歩き出した。
人通りは少ない。
大半の建物は暗くなっており、ときおり、窓から明かりが漏れている家があるくらいだった。街灯が道を照らし、その光の下をクロツキが一人で歩いていく。
手には、買い物袋。
その中身を思い出しながら、彼はぼそりと呟いた。
「毎月毎月、給料が遅れるってどうなんだよ……」
生活費だって必要だ。
食べ物も買わなければならない。
「今月、何食えばいいんだろ……またインスタント麺か?」
考えれば考えるほど、気が重くなる。
かといって、今すぐ別の仕事が見つかる保証もない。
「……転職、考えたほうがいいかもな」
そう呟きながら、クロツキは家路を急いだ。
しばらく歩くと、ようやく自宅にたどり着いた。
玄関の前で立ち止まり、足元のマットを持ち上げる。そこに隠しておいた鍵を取り出し、扉を開けた。
「ただいま……って、誰もいないけど」
返事などない。
クロツキは家に入り、後ろ手に扉を閉める。靴を脱ぎ、買い物袋を持ったまま家の中へと進んでいった。
そして、袋を適当な場所に放り出した。
「……疲れた」
今はもう、何も考えたくなかった。
とりあえず、腹を満たそう。
クロツキは台所へ向かい、鍋を取り出した。水を入れて火にかけると、冷蔵庫の扉を開ける。
中を覗き込んだ。
卵がいくつか。
飲み物が少々。
あとは、細々としたものが少しあるだけ。
「……え、俺ってこんなに貧乏だったっけ?」
思わず声が出た。
いや、冷静に考えれば、心当たりはある。
毎月のように給料が遅れるのだから、財布に余裕があるはずもない。
クロツキは卵をいくつか取り出し、冷蔵庫を閉めた。
続いて、棚を開ける。
そこには、いくつかの種類のインスタント麺が並んでいた。
しょうゆ味、味噌味、塩味。
どれも、もう何度食べたかわからない。
「さて……どれにするか」
しばらく眺めてみたものの、すぐに考えるのをやめた。
「……まあ、どれでもいいか。どうせ、もう全部飽きてるし」
適当に一つ選び、袋を開ける。
鍋の湯が沸くのを待ち、麺を入れ、卵も加えた。
やがて出来上がったものを器に移し、テーブルへ運ぶ。
クロツキは椅子に腰を下ろし、箸を手に取った。
「いただきます」
麺を口に運ぶ。
味は、いつもと変わらない。
特別おいしいわけでもないが、食べられないほどでもない。
ただ、毎日こればかりだと、さすがに飽きる。
「……やっぱり、仕事変えたほうがいいかな」
食べながら、クロツキは考えた。
このまま給料が遅れ続ければ、いずれ本当に食べるものにも困ることになる。
「はぁ……このままだと、そのうち餓死するぞ、俺」
冗談めかして呟いたものの、笑えるような状況でもなかった。
とにかく、明日だ。
明日になったら、店長に相談してみよう。
そう決めて、クロツキは残りの麺を口に運んだ。
*
食事を終えたクロツキは、器を片づけ、台所を簡単に掃除した。
その後、階下の明かりを消し、階段を上って自分の部屋へ向かう。
扉を開けて中に入り、後ろ手に閉める。
そして、ベッドに飛び込んだ。
「……あー、やっぱり寝るのが一番だわ」
身体がベッドに沈み込む。
仕事のことも、給料のことも、今だけは忘れていたかった。
クロツキは寝返りを打ち、天井を眺めた。
しばらく何も考えずにいたが、ふと、先ほどのことを思い出す。
「……いや、でも、このままってわけにもいかないよな」
働くこと自体は、別に嫌いではない。
ただ、今のままでは生活が苦しくなる一方だ。
「よし。明日、店長に言ってみよう。別の部署に異動させてもらうんだ」
それで何かが変わるかどうかはわからない。
それでも、何もしないよりはましだろう。
そう考えているうちに、クロツキの意識は少しずつ遠のいていった。
連日の疲労が、思っていた以上に身体にたまっていたらしい。
明日こそは店長に話そう。
そんなことを考えながら、彼はいつの間にか眠りに落ちていた。
どれくらい時間がたったのだろう。
「クロツキ!」
誰かの声が聞こえた。
「……ん?」
クロツキは寝ぼけたまま、わずかに身じろぎした。
「クロツキ! 起きなさい!」
声が、先ほどよりも大きくなる。
「……うるさいなぁ」
眠い。
とにかく、眠い。
せっかく気持ちよく寝ていたというのに、誰がこんな時間に――。
「クロツキ!!」
「はいっ!」
反射的に返事をして、クロツキは目を開けた。
そして、固まった。
目の前に広がっていたのは、自分の部屋ではなかった。
古めかしい造りの教室。
整然と並んだ机と椅子。
周囲には、制服を着た生徒たちが座っている。
そして、自分自身もまた、見覚えのない制服を着ていた。
「…………は?」
クロツキはゆっくりと視線を動かした。
どう見ても、学校だった。
しかも、普通の学校というより、どこか貴族の屋敷を思わせるような、妙に格式ばった教室である。
「……いや、ちょっと待て」
何が起きている?
自分は確かに、家のベッドで寝ていたはずだ。
それなのに、どうしてこんな場所にいるのだろう。
混乱するクロツキの前で、一人の教師が腕を組んでいた。
「クロツキ。授業中に居眠りとは、いい度胸だな」
「えっ……?」
「また眠っていたのか! いい加減にしなさい! 立ちなさい!」
「は、はい!」
怒鳴られたクロツキは、考える間もなく立ち上がった。
身体が勝手に反応したのだ。
教師は呆れたように息を吐く。
「それで、昨日出した宿題はやってきたんだろうな?」
「……え?」
宿題?
昨日?
クロツキの頭の中には、疑問符が次々と浮かんでいく。
そもそも、自分はこの学校に通っていた覚えすらない。
「えっと……その……」
言葉に詰まるクロツキを見て、教師の表情がさらに険しくなった。
「まさか、やっていないのか?」
「い、いや、それは……」
「昨日の宿題は、魔法陣の基礎式をいくつか解くだけだったはずだ! そんな簡単なことすらできないのか!」
「…………魔法陣?」
思わず、聞き返してしまった。
魔法陣?
何を言っているのだろう。
そんなもの、今まで見たこともない。
教師は額に手を当て、深いため息をついた。
「もういい。授業の邪魔だ。後ろに立っていなさい!」
「は、はい……」
クロツキは言われるまま、教室の後ろへと移動した。
一体、何がどうなっているのか。
頭の中は混乱するばかりだった。
その間にも、周囲の生徒たちが小声で話している。
「また寝てたのか、あいつ」
「昨日も遅くまで何かしてたんじゃない?」
「でも、かわいそうだよね。いつもあんなに眠そうだし……」
「まあ、確かに」
そんな声が、ところどころから聞こえてくる。
どうやら、彼らにとっては珍しい光景ではないらしい。
しかし、クロツキにとっては何もかもが初めてだった。
知らない教室。
知らない制服。
知らない教師。
そして、聞き慣れない魔法陣という言葉。
「…………」
クロツキは教室の後ろに立ったまま、そっと周囲を見渡した。
誰も、自分のことを不思議には思っていない。
まるで、最初からここにいるのが当たり前であるかのように。
「……いや、待て待て待て」
頭の中で、必死に状況を整理しようとする。
さっきまで、自分は家で寝ていた。
それは間違いない。
なのに、目を覚ましたら学校にいた。
しかも、魔法陣だの宿題だの、わけのわからない話まで飛び出してくる。
「……一体、俺はどこにいるんだ?」
その疑問に答えてくれる者は、誰もいなかった。




