45話:ざまぁ(帝都)
――帝都。
帝国の心臓部たるその場所は、かつてないほど濃密で、逃げ場のない重い空気に満たされていた。
豪奢な装飾が施された軍議室。高い天井、磨き抜かれた大理石の床、そして権力の象徴たる円卓。すべてはいつも通りそこにあるはずなのに、この部屋を支配しているのは、栄光とは程遠い、腐った泥のような沈黙だった。
一枚の報告書が、円卓の中央に置かれた。
羊皮紙が放つ微かな乾燥した音さえ、この空間では鼓膜を突き刺す不快なノイズとして響く。
居並ぶ閣僚、将官、そして帝国の重鎮たち。彼らは皆、眼前の紙片を、毒蛇か呪物でも見るかのような目で見つめていた。誰も、すぐには手を伸ばそうとしない。それを手に取り、文字を認識した瞬間に、自分たちが積み上げてきた世界が瓦解することを知っているからだ。
「……は?」
一人が、喉の奥から絞り出すような、掠れた声を漏らした。
それが合図だった。
震える手で報告書を手に取った文官が、感情を失った機械のような声で内容を読み上げ始める。
断片的な情報。
錯綜する証言。
信じがたい結末。
だが――そのわずかな事実だけで、事態の致命的な重さを伝えるには十分すぎた。
「三千が……全滅だと……?」
誰かが、うわ言のように呟いた。
その声には、怒りよりも先に、絶対的な拒絶があった。信じているのではない。信じることを、脳が拒否しているのだ。
帝国が誇る正規軍、三千。最新の装備をまとい、過酷な訓練を耐え抜き、数多の戦場を蹂躑してきた鉄の軍勢。それが、名もなき辺境の一都市を攻略するために向かい、一人として目的を果たさずに消え去った。
「将軍級も……ヴェイル公までもが、討たれたというのか?」
続く言葉は、震える風のように部屋を抜けた。
誰も、答えない。答えるための言葉を、誰も持ち合わせていなかった。
理解が、追いつかない。
あの規模の戦力。
あの圧倒的な個の武。
大陸の軍事バランスを一方的に書き換えてしまうほどの質量が、ただの一夜にして、地図上の小さな点に飲み込まれて霧散したのだ。
「……ふざけるな!! 貴様ら、何を報告しているのか分かっているのか!」
唐突な怒号が、死んでいた部屋を揺らした。
一人の武官が立ち上がり、拳で机を激しく叩きつけた。倒れたインク瓶から黒い液体が広がり、机上の戦術地図を黒く汚していく。椅子が床を擦る嫌な音が響き、彼の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。
だが。
その怒りは、長くは続かなかった。
燃え上がるような激しさは、報告書に記された「全滅」という二文字の冷徹な事実を前に、急速に萎んでいく。
怒鳴り散らしていた男の肩が、不自然に震え始めた。
真っ赤だった顔は、みるみるうちに血の気を失い、土気色へと変わっていく。
代わりに部屋を支配したのは――剥き出しの恐怖だった。
誰も、隣の者と目を合わせようとしない。
視線を交わせば、そこに宿る絶望が自分に伝染してしまうことを恐れている。
「……あの街は、一体、何だというのだ」
消え入りそうな声が、誰の口から漏れたのかも定かではない。
答えは出ない。
情報が足りないのではない。
偵察兵の報告も、逃げ帰った数少ない敗残兵の証言も、すべては一つの事実を指し示している。
だが、その事実を認めれば、帝国の存在意義そのものが否定される。
三千の兵。
大陸最強と謳われた将軍級。
それを、踏み潰した。
城壁も、正規の訓練を受けた騎士団もない、たった一つの街が。
自分たちが「奪う対象」としてしか見ていなかった、卑小なはずの民衆の手によって。
沈黙が、重く、粘り強く続く。
誰も、次の言葉を出せない。
いつもなら即座に下されるはずの「報復」の命令も。
事態を収束させるための「判断」も。
帝国の巨大な官僚機構という名の歯車が、異物を噛み込んだように完全に停止していた。
そして。
長い、あまりにも長い空白の果てに、ようやく一人が重い口を開いた。
その人物は、帝国の権威を一身に背負っているはずの重鎮であったが、その声は老人のように震えていた。
「……触れるな」
その一言が、冷たい雫のように部屋に落ちた。
「関わるな。これ以上、あの地へ兵を送ることは、死神の鎌を自ら首に当てるようなものだ」
誰も、否定しなかった。
否定できるだけの勇気も、根拠も、今の帝国には残されていない。
「……触れてはいけない。あそこには、我々の理解を超えた『何か』が生まれてしまった」
その一言が、動かせない事実として、円卓の上に重く居座った。
帝都の街並みは、今日も変わらず豪奢で、壮麗だ。
帝国はまだ、形としては立っている。
広大な領土も、残された兵力も、富も、まだそこにある。
だが――。
その中心で、何かが確実に、そして取り返しのつかない音を立てて崩れ去っていた。
最強であるという神話。
支配は絶対であるという幻想。
その基盤が砕かれた帝都の空気は、ただひたすらに冷え切っていた。




