39話:再戦
――夜。
冷え切った大気が肌を刺し、静まり返った空間には濃密な殺気だけが淀んでいる。
そこは、かつて敗北を喫した場所。
同じ荒野、同じ月の光、同じ構図。
だが、満ちている空気は半年前のそれとはまるで違っていた。
「来たな」
闇の中から、溶け出すようにその男が現れた。
ヴェイル。
軍神の名を欲しいままにする男は、武器を構えるでもなく、ただそこに立っているだけで周囲の空間を支配していた。その佇まいは静謐でありながら、触れれば指先が凍りつくような鋭利さを孕んでいる。
「準備はできたか? 私を失望させない程度の足掻きは用意してきたのだろうな」
オルシェは答えない。
言葉を交わす必要などなかった。彼はただ、静かに一歩前へ出た。
土を踏みしめる音。
整えられた呼吸。
射抜くような視線。
それだけで、オルシェが以前の彼ではないことを証明していた。
「……いい目だ」
ヴェイルがわずかに口角を上げた。それは嘲笑ではなく、獲物を品定めする捕食者の愉悦に近い。
「前よりは、幾分かマシになったようだ」
次の瞬間――ヴェイルの姿が消えた。
速い。
物理的な質量を持った人間が動いたとは思えない速度。視神経がその軌跡を捉える前に、死が目前まで迫る。
だが。
「……見える」
オルシェの脳が、極限の集中状態で時間を引き延ばす。
かつては反応すらできなかった神速の抜刀。それが今は、網膜の端に鈍い光の線として焼き付いている。
ギィィィ、という嫌な音が鳴り、斬撃が頬のすぐ横をかすめた。
わずかに皮膚が裂け、熱い血が滴る。だが、オルシェは怯まない。
回避と同時に一歩、深く踏み込む。
ヴェイルの瞳が、ほんのわずかに動いた。
「ほう?」
そこに灯ったのは、純粋な興味だった。
「変わったな。予測の範疇をわずかにはみ出してきたか」
その瞬間、オルシェの背後から鋭い気配が立ち上った。
振り向く暇もない。ヴェイルの影から放たれた追撃の刃が、オルシェの無防備な背中を狙う。
だが。
「遅いんだよ、おっさん」
激しい金属音が夜の静寂を打ち砕いた。
闇を切り裂いて飛び散る火花。
オルシェの背後に割り込んだのは、巨大な剣を振るうリーヴだった。
「ちっ」
ヴェイルがわずかに舌打ちをする。
完璧だったはずの追撃の軌跡が、リーヴの無骨な一撃によって強引にねじ曲げられた。
「一人で戦ってるわけじゃねぇんだよ。悪いな、俺たちは行儀のいい騎士道ごっこをしに来たわけじゃない」
リーヴが不敵に笑う。
その言葉を合図に、オルシェは無言のまま距離を詰めた。
二人の間に視線の交錯はない。だが、言葉以上の意志が共有されていた。
次の瞬間、二人は同時に動いた。
オルシェが正面から最短距離を突き、リーヴが真横から死角を抉る。
個々の動きはヴェイルに及ばない。しかし、二つの異なるリズムが不規則に混ざり合った攻撃は、ヴェイルの反射速度をわずかに遅らせた。
「……なるほど。個を捨て、混濁を選んだか」
ヴェイルは紙一重で一撃を受け流す。
だが、休息の間は与えられない。
その直後、別の角度から複数の斬撃が襲いかかった。
さらに、足元を狙う低い影。
暗闇に潜んでいた別働隊の奇襲だった。
「……増えたか」
セレスの指示によって配置された部隊が、蜘蛛の子を散らすように展開していた。
彼らの動きには、統一された美しさなど微塵もない。
ある者は這い、ある者は叫び、ある者は囮となって散る。
散開と連動。
一つ一つの動きは遅く、一つ一つの刃は弱い。
だが――。
「読めないな。この支離滅裂な連動は」
ヴェイルの目が細くなる。
彼の脳内にある戦術シミュレーターが、ノイズにまみれていく。
最適解を導き出そうとするたびに、現場の兵士たちが「理屈に合わない」動きでそれを裏切る。
予測がわずかにずれ、導き出した最適解が虚空を突く。
「面白い」
ヴェイルの口元が、初めて歪んだ。
それは明らかな歓喜だった。
だが、その一瞬の隙を、オルシェは見逃さなかった。
肺が焼け付くような呼吸の中、彼は全神経を剣尖に集束させる。
火花が散り、鋼と鋼が激突する。
ヴェイルの防御を、オルシェの一撃が捉えた。
完全に断ち切るには至らず、剣は容易く弾き返される。
だが――それで十分だった。
「……十分だ」
オルシェは大きく跳んで間合いを離した。
隣に並んだリーヴが、肩で息をしながらも愉快そうに剣を担ぎ直す。
「どうだよ、軍神様。少しは戦場らしくなってきただろ?」
ヴェイルは、静かに数歩下がった。
彼が身にまとっていた「無敵」の空気に、わずかな綻びが生じている。
沈黙。
風の音だけが草原を通り抜けていく。
そして。
「いい」
ヴェイルは小さく、独り言のように呟いた。
「これは、実に面白い。不合理の中にこそ、真の闘争がある」
彼はゆっくりと背を向けた。
「次は、もっと私を壊してみせろ。お前たちが持ち込んだそのカオスが、どこまで届くか見届けてやろう」
ヴェイルの姿が闇に吸い込まれ、消えていく。
後には、戦いの余韻と静寂だけが残された。
誰も動かなかった。
極限の緊張から解放され、立っているのがやっとの状態だった。
だが、そこには以前のような絶望はなかった。
誰の瞳にも、恐怖の色は宿っていない。
オルシェが、震える拳を握りしめて言った。
「……通用する」
その一言に、リーヴが深く頷く。
「ああ。あいつの首まで、あと少しだ」
夜は、まだ終わらない。
決戦の時は刻一刻と近づいている。
だが、この再戦を経て、彼らを取り巻く運命は確実に、そして劇的に形を変えていた。




