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境界の宿「一期一会」~壁に刻まれた粋と野暮~  作者: サハラ


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がんじがらめの 運命を笑い 飛んで火に入る 夏の虫

境界の宿『一期一会』の、どこか湿り気を帯びたような壁に囲まれ、唯一窓から差し込む月光が明かりの「共生の間」に、その二人はいた。


 豪奢な祭服に身を包んだ少女――聖女クラリスは、窓から差し込む青白い月光を浴びて、彫像のように静止している。彼女の肌は透き通るほどに白く、その瞳には一切の生気が宿っていない。明日、彼女は「世界の楔」として、聖都の祭壇でその命を捧げることになっていた。それが、千年前から綴られた「神託」という名の、絶対的な台本である。


 その傍らで、錆びついた黒鎧を軋ませ、無造作に酒を煽っているのが老騎士ガウェインだ。彼は英雄でもなければ、高潔な近衛騎士でもない。王家が表に出せない汚れ仕事を一手に引き受けてきた、文字通りのドブネズミである。


「……最後の一夜が、こんなしけた宿とはな。神様も案外、人を見る目がねえ」


 ガウェインの掠れた声が、室内に冷たく響く。

 クラリスは力なく微笑んだ。その微笑みは、自らの死を当然の義務として受け入れた者の、乾いた諦念に満ちていた。


「いいのです、ガウェイン様。この場所には、多くの『想い』が満ちています。壁を見てください。ここを通り過ぎていった、名もなき方々の狂おしい程の生きた証が、幾重にも重なっている」




クラリスが聖女として選ばれたのは、彼女が物心つく前だった。

 彼女の人生は、常に「世界のため」に用意されていた。何を食べるか、誰と話し、いつ、どこで、どのように死ぬか。すべては神殿の司祭たちが管理し、彼女はただ、完璧な「神への供物」として磨き上げられてきた。彼女にとって、自分の意志で呼吸をすることさえ、許されぬ贅沢であったのだ。


 ガウェインが彼女の護衛に任命されたのは、彼が「感情を持たない道具」だと思われていたからだ。


『情を移すな。明日、彼女を祭壇へ送り届け、その首を撥ねる手伝いをするのが、お前の最後の汚れ仕事だ』


 司祭の冷酷な言葉に、ガウェインはただ、濁った瞳で頷いた。

 だが、この数ヶ月に及ぶ過酷な旅路で、ガウェインが見たのは、高貴な「聖女」などではなかった。

 道端に咲く名もなき草を「綺麗だ」と愛で、不味い乾燥肉を無理に飲み込んでは喉を詰まらせ、真夜中に「死ぬのが怖い」と子供のように震える、どこにでもいる一人の少女だった。

 ガウェインは、かつて自分が数多の戦場で踏みにじり、見捨ててきたはずの良心の残滓が、胸の奥で熱く疼くのを感じていた。彼は道具のように、ただ淡々と獲物を屠るだけであったはずなのに。


クラリスの視線が、壁に刻まれた無数の詩を辿る。

 そこには、かつてこの部屋に泊まった者たちの、言葉にできなかった情念が地層のように刻まれていた。


 夜明けを恐れて震えた者の未練。

 種族の壁を越えようとして地に堕ちた者の覚悟。

 嘘の中に唯一の真実を隠し通そうとした者の矜持。

 傷ついた羽を休め、ただ隣に誰かがいることを願った者の祈り。

 そして、逃げ場のない共依存の果てに、心中にも似た結びつきを選んだ者の毒。


「……皆さん、しがみついておられたのですね。自分の心に、ままならぬ運命に。泥を啜り、毒を飲み干してでも、自分の人生を自分だけの形で終わらせようとしていた。……私には、その無様さが、何よりも羨ましいのです」


 クラリスの声が、細く震える。

 ガウェインは飲み干した酒杯を床に叩きつけ、立ち上がった。


「野暮なことを言うな。神託だか台本だか知らねえが、あんなものは所詮、とっくに死んだ奴らが勝手に書いた古い紙切れだ。……おい、小娘。お前は、本当にあんな汚い連中の為に、首を差し出したいのか?」


「……私が死ななければ、世界が滅びると教わりました。それが私の存在意義なのだと」


「世界なんて、一度滅びてしまえばいい。俺が見たいのは、平和な明日じゃねえ。お前が不味そうに飯を食う、その野暮ったいツラだけだ」


ガウェインは腰に差した折れた剣を抜き、壁に刻まれた神殿の聖なる紋章を、力任せに削り取った。火花が散り、石の破片がクラリスの足元に転がる。それは、数千年に及ぶ信仰への、一介の老兵による宣戦布告であった。


ガウェインは、呆然とするクラリスの手を、その分厚く、汚れきった掌で強く掴んだ。


「逃げるぞ、クラリス。聖都へ行く道は、今この瞬間に捨てた。……これからは、どこへ行っても追われる身だ。教会も、騎士団も、もしかしたらこの『神』が作った世界そのものが敵になるかもしれない」


「それは……地獄へ向かうようなものではありませんか」


「ああ。だが、自分の足で歩き、自分の意志で堕ちる地獄だ。他人の指図で座らされる天国よりは、よっぽど寝心地がいいぜ」


 クラリスの瞳に、初めて生身の人間としての、激しい熱が灯った。

 彼女は、純潔の証であった祭服の裾を自ら乱暴に引き裂き、泥にまみれた足を露わにした。その動作は、千年の伝統を、そして自分を縛ってきたすべてを嘲笑うような、最高の不敬であった。


 ガウェインは、削り取った紋章の跡に、新たな言葉を深く、力強く刻み込んだ。


がんじがらめの 運命(さだめ)を笑い 飛んで火に入る 夏の虫


「行きましょう、ガウェイン様。……いいえ、私の『騎士様』」


 二人は宿の裏口から、まだ深い闇に包まれた、出口の見えぬ森へと飛び出した。

 夜明けとともに、彼らは「世界を滅ぼそうとした最悪の大罪人」として、歴史にその名を汚されるだろう。だが、そんな不名誉こそが、二人が自らの意志で勝ち取った、唯一の勲章だった。


 宿の壁には、新たに刻まれた詩が、月光を反射して白く輝いている。

 それは、運命という名の巨大な檻を内側からぶち壊した、無骨な男と、自我を取り戻した少女の、粋な反逆の記録であった。

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