死ぬも生きるも あなたの指に 絡めて放さぬ 赤い糸
宿屋『一期一会』の「共生の間」は、外の世界の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
豪奢な椅子に深く腰掛けた青年・ユリウスは、微かな赤みを帯びた琥珀色の酒を、音もなく喉に流し込む。彼の細い首筋には、魔女シモーヌが刻んだ「隷属の紋章」が、皮膚の下で脈打つように淡く発光していた。
その膝に頭を預け、猫のように喉を鳴らして眠っているのが、かつて彼の王国を一夜にして灰にした魔女その人だ。
ユリウスの指が、彼女の艶やかな黒髪をゆっくりと梳く。その指使いは、いつか彼女の喉を締め上げるための予行演習のようでもあり、あるいは、この髪の一本さえ失いたくないという病的な執着のようでもあった。
三年前、城が燃え、家臣たちが次々と倒れゆく中で、ユリウスは一人、玉座の間で彼女を待っていた。
彼女が血に濡れた鎌を手に現れたとき、ユリウスは剣を捨て、嘲笑を浮かべてこう言ったのだ。
「殺すのは構わん。だが、俺を殺せば、お前を心から憎んでくれる人間はこの世から一人もいなくなるぞ。……それでいいのか、寂しがり屋の魔女殿」
死を恐れるどころか、自らの「憎悪」を餌に彼女を釣った。その傲慢なまでの肝の据わり方に、シモーヌは初めて愉悦を覚えた。彼女は彼を殺す代わりに、一生消えぬ呪印を刻み、彼を「飼う」ことに決めた。
対するユリウスもまた、生き延びて再興を狙うなどという殊勝な考えは持っていなかった。彼は、自らの全てを滅ぼしたこの女の隣で、彼女が自分という劇毒に中てられて正気を失う様を、特等席で見守りたかったのだ。
二人は、互いを地獄の底へ引きずり込むための、最も純度の高い「道連れ」だった。
宿の主人が運んできたのは、二人の歪な関係を祝うような、毒々しい真紅の薔薇を浮かべた『夢路の葡萄酒』だった。
ユリウスの視線が、壁に刻まれた先人たちの詩に留まる。
彼らが求めた「救い」が、この部屋の壁には言葉となって染み付いている。
だが、ユリウスが求めているのは救済などではない。
「……野暮な話だ」
彼は独りごちて、自らの爪を立てた。壁の余白、既存の句を蹂躙するように、五つ目の言葉を深く、激しく刻み込む。
『しぬも生きるも……』
刻まれた文字から、彼の指先の血が滴り、壁の模様を汚していく。
彼は眠るシモーヌの首元に指を伸ばし、その細い喉に軽く触れた。彼女を殺すのは容易い。だが、彼女を殺せば、自分のこの「憎しみという名の熱」はどこへ行けばいい?
彼は彼女を愛しているのではない。彼女という呪いなしでは、もはや自分自身のカタチを保てないほどに、その魂が混ざり合ってしまっているのだ。
シモーヌが薄く目を開け、ユリウスの血に汚れた指先を、愛おしそうに舐めとった。
「……いいわ、ユリウス。その憎しみが消えるまで、私の鎖を離さないでちょうだい」
「鎖を握っているのは俺の方だ、シモーヌ。お前が死ぬときは、俺がその心臓を道連れにしてやる」
二人は暗闇の中で、噛み付くような口付けを交わし
た。首筋の呪印が、痛みを伴うほどの熱を発し、二人の魂をさらに固く結びつける。
外の世界には、魔女を討つ英雄も、王国を救う騎士もいるだろう。だが、この「共生の間」に閉じこもった二人の間には、もはや善悪の入り込む余地はない。
壁に残された新たな詩。
死ぬも生きるも あなたの指に 絡めて放さぬ 赤い糸
それは運命の糸などではなく、互いの首を締め上げるための、解けない絞首刑の縄だった。
だが、二人にとっては、これこそがこの世で最も心地よい「しがみつく」ための手段なのだ。
救われぬまま、腐り果てるまで共にいる。
それは、誇り高き亡国の王と、孤独な魔女が辿り着いた、究極の共依存の形だった。




