はねを休めて 隣で眠る 明日は知らぬ 仮の宿
宿屋『一期一会』の片隅。窓から差し込む柔らかな午後の光を浴びて、羽を持つ種族――翼人の青年・カイルは、深い眠りの中にいた。
彼の背中で、本来なら誇り高く広がるはずの白銀の翼は、無残に折れ、添え木と包帯で固められている。かつては雲を切り裂き、戦場から戦場へと密書を届ける「最速の伝令」として名を馳せた彼だったが、その速度を疎んだ敵の罠に翼を焼かれ、文字通り地に落ちたのだ。
その隣で、無愛想に薬草を刻んでいるのは、彼を戦場の泥の中から拾い上げた人間の薬師・セツだ。
「……ん、セツ、か」
「起きたなら薬を飲め。夢で空を飛ぶのは勝手だが、寝返りで傷を開かせたら、次は煮て食うぞ」
セツは顔も上げずに、苦い汁の入った木杯をカイルの枕元に置いた。その言葉は剣のように鋭いが、カイルの傷口に塗られた軟膏は、驚くほど優しく冷たかった。
三ヶ月前、カイルは死を覚悟していた。
翼を失った翼人は、水を捨てた魚と同じだ。群れからも軍からも見捨てられ、ただの肉塊として朽ちるのを待っていた。そんな彼を、薬草を摘んでいたセツが拾い上げ、ボロ布のようになった身を背負ってこの宿まで運んできた。
「俺はもう飛べない。価値のない鳥だ。放っておいてくれ」
最初にカイルが吐いた言葉に、セツは薬草をすり潰しながら鼻で笑った。
「価値だの何だの、野暮なことを抜かすな。私は目の前で壊れているものがあれば、直したくなる性分なだけだ。お前が飛ぼうが這おうが、知ったことか」
以来、セツはこの宿の片隅を借り、カイルの翼を繋ぎ止めるための治療を続けてきた。セツの作る薬はひどく不味く、彼女の態度は常に突き放すようだったが、カイルはその「無愛想な献身」の中に、かつての軍隊での賞賛よりもずっと深い安らぎを見出していた。
カイルは、セツの隣で羽を休める時間が、これほどまでに愛おしくなるとは思わなかった。
空にいた頃は、常に風を読み、敵を警戒し、明日の行き先ばかりを考えていた。だが今は、薬草を刻む規則正しい音を聞きながら、ただ隣で微睡むだけでいい。
彼の視線が、壁に刻まれた先人たちの詩に留まった。
別れを惜しむ男、永遠よりも今を選んだ女、互いを騙し抜いた者たち。彼らの「しがみつく」ような情念の跡。
カイルは思う。自分もまた、この無愛想な薬師の指先に、折れた翼ごとしがみついているのではないか。
彼は爪の先で、壁の余白に新たな一句を刻んだ。
『はねを休めて……』
「おい、壁を傷つけるな。宿の主人に怒られるぞ」
「いいんだ。これは俺がここにいた、ただの足跡だよ」
カイルは笑った。たとえ明日、翼が治って空に戻れる日が来たとしても、あるいは一生地を這うことになったとしても。この「仮の宿」で彼女の隣に座っていた記憶だけは、誰にも奪えない宝物になる。
セツは刻んでいた手を止め、ようやくカイルの方を向いた。
「……カイル。翼の骨はもう繋がっている。あと数日もすれば、羽ばたくくらいはできるだろう」
それは、別れの予告でもあった。翼が治れば、鳥は空へ帰るのが道理だ。
だが、カイルは静かに首を振った。
「セツ。空は広すぎて、どこへ行けばいいか分からなくなる。……でも、お前の薬草の匂いがする場所なら、俺は迷わずに済むんだ」
「……不味い薬が恋しいのか。物好きな鳥だ」
セツは再び背を向けたが、その耳の端がわずかに赤くなっているのを、カイルは見逃さなかった。
壁に残された新しい詩。




