とけて流れる 雪解け水に 流しきれない 恋の垢
宿屋『一期一会』の「共生の間」に、一組の男女が滑り込んだ。
男の名はシド。自称は「亡国の没落貴族」だが、その正体はこの界隈で名の知れた稀代の詐欺師だ。隣に立つ女、ミラは、清楚な「修道女」の格好をしているが、その袖口には鍵開けの針と睡眠薬の小瓶が隠されている。
二人は今、ある大商家から国宝級の魔石を奪い、追っ手を撒いてこの宿に辿り着いたところだった。
「ようやく一息つけるわね、シド」
「ああ。この宿の契約さえあれば、追っ手の騎士団も手は出せない」
二人は互いに微笑み合う。その笑顔は完璧な貴族の優雅さと、聖職者の慈愛に満ちていた。だが、その瞳の奥では、互いに「いつ相手を出し抜いて、魔石を独り占めにするか」という冷徹な計算が火花を散らしている。
二人が組んだのは、半年前の冬のことだった。
雪深い北の街で、シドはミラをカモにしようと近づき、逆に財布を抜かれた。その腕に惚れた(あるいは利用価値を見出した)シドが声をかけ、以来、二人は数々の難攻不落な金庫を破ってきた。
シドはミラの「嘘」を愛していた。彼女が語る偽の身の上話、死んだ弟の話、故郷の村が焼かれた話――すべてが真っ赤な嘘だと知りながら、その語り口の鮮やかさに、彼は「粋」を感じていた。
対するミラもまた、シドの「執着」を笑っていた。彼は金のためなら手段を選ばないと言いながら、時折、盗んだ金の一部を名もなき孤児院の窓口に放り込むような、野暮な甘さを持っている。
二人は決して本名を明かさず、素顔を見せない。
信じないことで繋がっている。それが、詐欺師としての二人の完成された「愛」の形だった。
宿の主人が運んできたのは、季節外れの温かな『雪解けのハーブティー』だった。
窓の外では、長く続いた魔の冬が終わりを告げようとしている。軒先から滴る水の音が、まるで時を刻む砂時計のように部屋に響く。
「……ねえ、シド。この仕事が終わったら、足を洗わない?」
ミラがふと、毒にも薬にもならないような、甘い「嘘」を吐いた。
シドはティーカップを置き、彼女の横顔を見つめる。
「いいだろう。南の島で、偽の名を捨てて、本当の夫婦として暮らすか?」
これもまた、完璧な「嘘」だ。二人は知っている。明日、この宿を出た瞬間に、どちらかが相手の背中にナイフを突き立て、魔石を奪って逃げることを。
シドの視線が、壁に新しく刻まれた二つの詩に吸い寄せられた。
誰かの孤独な夜明けと、どこかの公女の刹那の決意。
それらに比べれば、自分たちの積み上げてきたものは、なんと泥臭く、汚れていることか。
シドは爪を立て、前の二つの詩をなぞるように、三つ目の言葉を刻み始めた。
『とけて流れる 雪解け水に……』
どんなに美しい嘘で塗り固めても、自分たちの心にこびりついた「恋という名の垢」だけは、綺麗さっぱり洗い流すことなどできない。
夜が明ける直前、シドは目を覚ました。
隣の寝台は、すでに冷たくなっていた。予想通り、重かったはずの魔石の袋が、彼の懐から消えている。
「……やはり、そうか」
シドは自嘲気味に笑い、空になったはずの懐に手を入れた。だが、そこには石の硬い感触ではなく、小さく丸い、柔らかな手触りのものが転がっていた。
取り出したのは、一粒の安物の真珠のピアスだった。
かつてミラが、「これだけは本物の、母の形見なの」と、詐欺師にあるまじき真剣な目で語っていた、あのピアスだ。
驚いて枕元を見れば、そこには彼女が持ち去ったはずの『本物の魔石』が、朝日を浴びて静かに鎮座していた。
シドは息を呑んだ。
彼女は、詐欺師としての「獲物」をすべて彼に譲り、自分にとって唯一の「真実」であるピアスを、彼の守り刀代わりに残していったのだ。宿の外からは、彼女を追う騎士たちの馬蹄の音が遠ざかっていく。
「……最後まで、野暮な真実を押し付けやがって」
彼女はシドを救うために、自ら「魔石を盗んだ大罪人」の振る舞いをして、囮となって夜の闇へ消えた。
どんなに美しい嘘で塗り固めても、二人の間に残ったのは、洗い流しようのない泥臭い「献身」という名の垢だった。




