命短し 恋せよ乙女 あだに咲く間に 散らばこそ
宿屋『一期一会』の重い扉を叩いたのは、場違いなほど豪奢なドレスを泥で汚した少女と、彼女を庇うように立つ無口な騎士だった。
少女――エリュシオンは、この大陸を統べるエルフの聖域から逃げ出した「公女」。そして、彼女の手を引く大男のハンスは、彼女に一生を捧げるはずだった「人間の守護騎士」である。
二人が案内されたのは、奇しくもあの『共生の間』。
ハンスは室内に入るなり、主人のように振る舞うこともなく、まずは窓の鍵を確かめ、重い銀の鎧を軋ませて部屋の四隅を検分した。その徹底した「従者」としての動きが、今の二人の危うい関係を象徴している。
エルフの寿命は数千年に及ぶが、人間のそれは瞬きほどに短い。
聖域において、公女と人間の騎士が愛し合うことは、死よりも重い禁忌とされていた。何より、エリュシオンの父である王は、「数十年で老いさらばえる猿に、我が娘の永遠を預けるなど野暮の極み」と、ハンスの追放を命じたのだ。
その夜、エリュシオンは自ら羽を毟るような覚悟で、宝石箱と王冠を投げ捨てた。
「ハンス、私を盗みなさい。これは命令よ」
彼女の言葉は、主君としての命でありながら、一人の乙女としての悲鳴だった。
ハンスは沈黙を貫いた。だが、その大きな手は彼女の細い手首を掴み、迷うことなく森の結界を切り裂いたのだ。カマキリが獲物を抱きかかえるように、彼は彼女を奪い、闇へと駆けた。
宿の主人が運んできたのは、温かな蜂蜜酒と、質素だが滋味深いパンだった。
ハンスは毒見を済ませると、ようやく自分の兜を脱いだ。その顔には、逃走中の緊張と、それ以上に「自分がいなくなった後の彼女」を憂う深い皺が刻まれている。
「お嬢様。明朝には、さらに西の国境を越えます。そうすれば、追っ手も容易には……」
「まだ『お嬢様』と呼ぶのね、ハンス」
エリュシオンは、壁に刻まれた新たな想いを指先でなぞりながら、寂しげに笑った。そこにはいつか、誰かが残した『明けの明星』の詩が、まだ新しく刻まれている。
彼女は、自分が彼よりずっと長く生きることを知っている。
彼が老い、剣を振るえなくなり、やがて土に還る時。自分はまだ、今の若く美しい姿のまま、彼を失った絶望の中で数百年を生きるだろう。
それは執着という名の呪いだ。それでも、彼女はこの短い「今」を、何千年の孤独と引き換えることに決めた。
エリュシオンは、ハンスの硬く節くれだった手を両手で包み込んだ。
「いい、ハンス。私たちの時間は、エルフの物差しでは測れない。あなたが死ぬとき、私も一緒に死ぬわ。心がね。……だから、それまでは全力で私を愛しなさい。これは、最後の命令よ」
ハンスの瞳に、初めて従者ではない「一人の男」の光が宿った。
彼は深く頭を垂れる代わりに、彼女を強く抱きしめた。鎧の冷たさが、彼女の体温を奪うのではなく、守るための盾のように感じられた。
エリュシオンは、壁の『明けの明星』のすぐ下に、新たな一句を刻んだ。
命短し 恋せよ乙女 あだに咲く間に 散らばこそ
それは、短命な人間を愛した彼女の、誇り高い「粋」の表明だった。
たとえいつか散る花であっても、今この瞬間に燃え尽きることを選んだ二人。
翌朝、宿の主人が部屋を訪れたとき、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、窓辺にはエルフの宝物であったはずの「不老の魔石」が、宿泊代として無造作に置かれていた。
それは「永遠」よりも「今」を選んだ、二人の駆け落ちの証文だった。




